奈 良 県

史跡・建築物

東大寺 大仏殿 東大寺 二月堂 法隆寺
平城京跡 聖林寺 談山神社
石舞台 岡寺 亀石
吉備姫王墓 旧柳生藩家老屋敷 一刀石
金峰神社 吉野水分神社 金峯山寺
正倉院 旧柳生藩家老屋敷 一刀石

東大寺 大仏殿(とうだいじ だいぶつでん)
内容=★★★★☆ お得度=★★★★☆

大仏殿の全景
外から見た大仏殿
奈良時代に聖武天皇の発願によって建立された寺で、華厳宗の総本山でもある。その中心にある大仏殿(金堂)には高さ15mの大仏が納められている。
神亀5年(728年)に聖武天皇の皇太子の菩提を追修するために建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)に始まり、天平13年(741年)に発した「国分寺・国分尼寺建立の詔」により大和国の国分寺に充てらた。天平15年(743年)に「盧舎那大仏造顕の詔」を発し、大仏の造像および大仏殿の造営が始まった。そして天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ)が行われた。
その後、治承4年(1180年)に平重衡の軍勢により大半の伽藍が焼き払われ、その後復興するも永禄10年(1567)の三好・松永の乱で、大半の建物が焼失した。現在の建物は江戸時代・宝永6年(1709年)に再建されたものである。このときに大仏殿の横幅は2/3(88m→57m)に縮小されてしまったが、現在に至っても世界最大の木造建築物となっている。また中に納められている大仏も幾多の戦火のため焼け落ち、建立当初のものは左大腿部褶襞の一部と台座の蓮弁部のみと言われている。
拝観料=500円、開館時間=7:30〜17:30(季節により変動あり)

奈良に来たなら一度は行ってほしいところ。現在でも世界最大の木造建築であるが、当時はさらに大きかったことを考えるととてつもないことが実感できる。中にある大仏の大きさにも圧倒されてしまう。大仏は随時補修されていたのがはっきりとわかるように、下の方から順々に新しくなっている。ちなみに大仏の写真は正面からではなく右前か左前から撮る方がお勧め。
大仏の裏にある柱の一つには穴が開いており、通り抜けられるようになっている。穴の大きさは大仏の鼻の穴と同じ大きさらしい。健康祈願の御利益があるみたいであるが、詳細はよくわからない。言われも何も書かれていないので特に意味はないのかもしれない。ネタ的に是非くぐってみてもらいたいところであるが、一人でやるとちょっと恥ずかしいかも・・・。また、思った以上に狭いため通り抜けるにはコツ(両手を先に穴に入れてから足を踏ん張って反対側に手をかけ後は体を引っ張り上げる)がいる。通り抜けると誰からともなく拍手がわき起こる。

訪問時のツーレポ
 ● 1999年07月 ソロツーリング 北海道・東北へ
 ● 1999年10月 らいらっく 忘年会
 ● 2001年06月 らいらっく 布目キャンプ
 ● 2006年03月 らいらっく 伊勢・鳥羽ツーリング
東大寺 二月堂(とうだいじ にがつどう)
内容=★★★★☆ お得度=★★★★★

二月堂からの展望
二月堂全景
東大寺の大仏殿から山の麓に歩いていったところにある建物で、舞台造りのお堂。2〜3月にお水取りという名で有名な修二会(しゅうにえかい)が行われる。
この行事は奈良時代の東大寺別当実忠(じっちゅう)和尚が、笠置山の龍穴の奥深くに参入し、兜率天(とそつてん)の内院に詣でて、そこで菩薩聖衆が毎夜補陀落山(ふだらくせん)に登り、観音を礼拝する姿を見て、これを下界でまねたものと言われている。天平勝宝4年(752年)から欠かさず行われてきたと伝えられ、練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる11人の僧が行の主役となる。なお、修正会は一月の初めに、修二会は二月初めに行なうもので、どちらも迎春の法会である。
山の中腹にあり、大仏殿付近から二月堂参道の階段を10分くらい歩くと到着。高台にあるため、奈良の市街地を一望することができる。ちなみにすぐ横に東大寺建立当時から建っていると言われる三月堂があり、その横に四月堂という建物もある。
境内自由、拝観無料。

建物は古く、趣はあるが、特に何があるわけでもないが、ここのベンチに座って奈良の町並みを眺めるのはいいかもしれない。遠くに興福寺の五重塔が見えていい感じである。
修二会はテレビでしか見たことがないが、なかなか迫力がある。ただ、実際に行くと有名なだけあってかなりの人出でしゃれにならない感じ。

訪問時のツーレポ
 ● 2001年06月 らいらっく 布目キャンプ
 ● 2003年10月 らいらっく 秋の強化合宿
法隆寺(ほうりゅうじ)
内容=★★★★★ お得度=★★★★☆

西院伽藍 中門と五重塔
東院伽藍 夢殿
飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として知られ、1993年に日本で初めてユネスコの世界遺産に登録された建物である。五重塔・金堂を中心とする西院伽藍と夢殿を中心とする東院伽藍に分けられ、広さ187,000m2の境内には多くの建築物や宝物類がある。
推古15年(607年)、推古天皇と聖徳太子が用明天皇の意志を継ぎ建立したものが法隆寺である。天智9年(670年)に落雷により焼失したが、8世紀初めに金堂・五重塔・大講堂・中門・回廊からなる西院伽藍が整備された。これが現在残っている建物である。
大講堂は延長3年(925年)に落雷により消失し、現在のものは正歴元年(990年)に再建されたものである。また南大門も永亨7年(1435年)に消失し、永亨10年(1438年)に再建された。金堂内には釈迦・薬師・弥勒・阿弥陀の四浄土と八体の菩薩などが描かれていたが、昭和24年(1949年)の火災で飛天小壁画以外は焼失し、現在は復元画が納められている。
天平11年(739年)に行信僧都により蘇我入鹿によって焼かれた聖徳太子の斑鳩宮跡に建立されたのが上宮王院で、八角円堂の夢殿を中心に礼堂、絵殿、舎利殿、伝法堂が廃されており、東院伽藍と呼ばれている。聖徳太子を奉る太子の中心となった。
このほか百済観音像や玉虫厨子などの宝物を納めた大宝蔵院や食堂、西円堂など国宝や重要文化財に指定された多くの建物や宝物が多く展示されている。
拝観料=1000円(西院伽藍・東院伽藍・大宝蔵院含む)、開館時間=8:00〜16:30

一度消失しているとはいえ、それでも世界最古の木造建築である。五重塔の年代測定は実際の中心木を薄く切り取って年代測定が行われたものなのでほぼ間違いないだろう。よくもまあ1300年も無事に残っていたものだと感心してしまう。
広大な広さを持つので、境内は静かなたたずまいを見せており、昔の面影を十分に堪能できる。すべての建物を一通り見て回っても1時間くらいかかるが、出来ればもっとゆっくり見て回りたいところ。無料ガイドもあるが、これに参加すると4時間くらいかかるらしい。まあ、一つ一つの説明を聞いていったらそのくらいかかるだろう。国宝の建物だけでも10以上あるからなあ。観光客が多いので出来れば朝一に行く方がいいだろう。
拝観料は1000円となっているが、その価値は十分にあると思われる。西院伽藍、東院伽藍、大宝蔵院の中まで入らないのであればお金はかからないし、近くまで行く必要がなければ境内を歩くだけでも十分に楽しめるが、一度は中まで入って見て回ることをお勧めする。

訪問時のツーレポ
 ● 1999年10月 らいらっく 忘年会
 ● 2004年07月 らいらっく 京都花火大会
平城宮跡(へいじょうきゅうせき)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

平城京 太極殿跡
和銅3年(710年)に元明天皇によって飛鳥の藤原京から遷都され、以降7代に渡り都として栄えたところ。784年に桓武天皇によって長岡京に遷るまでを都のあった場所を示して奈良時代と言う。
唐の都・長安を参考に風水を考えて造営された都で、東西約4.2km、南北約4.7kmの広さを誇り、東に外京(げきょう)と呼ばれる張り出し部分を持った形をしていた。正門の羅城門(らじょうもん)から朱雀門(すざくもん)まで幅74mの朱雀大路が貫き、これを中心に大路、小路が碁盤目状に走っていた。当時は約10万人(20万人という説もあり)の人々が生活していたと言われている。
現在は東西1.4km、南北1kmの広大な土地を特別史跡として保存されているが、当時の建物はすべて遷都の時に新しい都に移されたため何も残っていない。発掘調査に基づいて朱雀門(平城宮の正門で間口約25m、奥行約20m、高さ約22mで二層の瓦屋根をもつ。門の両側には大垣も一部復元され、当時の朱雀大路の規模が体感できる)、東院庭園(平城宮跡の東寄りから発見された天平時代の庭園を再現したもので、遺構は保護のため土に埋められたが、その上に池や建物を復元)が復元され、その他の建物も土台部分が復元されている。また現在は太極殿正殿が復元中である。その他、発掘調査成果を解説している平城宮跡資料館や発掘された建物の遺構を公開している遺構展示館がある。
境内自由、入館料=無料、資料館拝観時間=9:00〜16:30、定休日=月曜日

復元されている建物もあるが、広大なところなのでただの広場のように感じる。現在は太極殿が再建中なのでこれが出来るとまた変わった印象になるかもしれない。東院庭園は有料だが、資料館は無料なので時間があるようなら見て回るのもいいだろう。
ここでぼーっとして遙か昔の都に思いをはせるのもいいかも。自分は結構気に入っている場所で、時間があるときはここで昼寝したりしている。

訪問時のツーレポ
 ● 1999年07月 ソロツーリング 北海道・東北へ
 ● 2001年04月 らいらっく クレヨンラストバトル
 ● 2004年07月 らいらっく 京都花火大会
聖林寺(しょうりんじ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★☆☆☆

本堂の石仏
奈良時代・712年(和銅5年)頃、藤原家の寺・談山妙楽寺(現・談山神社)の別院として創建されたと言われている。度重なる兵火により伽藍はことごとく焼失したが、その多くの仏像、仏画を現在に伝えている。鎌倉時代には三輪山の慶円上人が、江戸時代には三輪山の玄心和人が再興。
享保の頃、この寺の僧・文春が女人安産を願って願をかけ、小さな木造の地蔵菩薩を彫りこれを背にして諸国行脚の旅に出た。約5年後、寺に戻った文春が作成した地蔵菩薩が現在の本尊である子安延命地蔵菩薩・大石仏である。現在でも女人安産・小授けの志願本尊として有名。本尊に向かって左右の掌善・掌悪童子は子そだての子育ての霊像として奉られている。
この寺の所有する十一面観世音菩薩は第一回指定の国宝で、天平時代を代表する美しい仏像として知られている。大神神社の神宮寺、三輪山・大御輪寺(おおみわでら)の元の本尊で、天平神護年間前後、西暦762年から769年の間に東大寺の造仏所で造像され、その願主は智努王(ちぬのおおきみ・文室真人浄三、天武天皇の孫)とする説が有力である。造像の由縁はよく分かっていないが、わが国発祥の地、古代大和王権の中心地に祭られた意義は大きく、時の孝謙女帝が何らかの関与をしたと言われている。長く三輪の本地仏で秘仏としてまつられてきたが、神仏分離令を受けて、高僧、大心(聖林寺再興七世)によってこの寺に運ばれた。観音はかつて四天王に守られ前立観音があり、左右に多くの仏像が並び立ち(現法隆寺の地蔵菩薩=国宝は左脇侍です。)背面には薬師如来一万体が描かれた板絵がある荘厳の中にまつられていた。現在、奈良国立博物館に寄託している光背は大破しているが、宝相華文をちりばめた見事なものであったといわれている。
拝観時間=9:00〜16:30、拝観料=400円。

山の中にある地元のお寺と言ったたたずまいを見せており、ここから卑弥呼の墓と言われている箸墓の古墳などの大和盆地を見下ろす事ができてなかなかいい感じ。本堂からの眺めが一番いいと思われる。寺には多くの仏像や絵画が保管されており、常時観覧できるようになっている。(一部期間限定の物があるらしい)

訪問時のツーレポ
 ● 2003年04月 らいらっく&島を愛す お花見会 2003
談山神社(たんざんじんじゃ)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★☆☆

十三重の塔
舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていた。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていた。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりのえ)があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)に会い、西暦645年の5月、二人は藤の花の咲き乱れる多武峰(とうのみね)に密かに登って、「大化改新」の談合を行ったと言われている。後にこの山を「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森(だんじょがもり)」と呼び、談山神社の社号の起こりとなった。
669年(天智天皇8年)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、後日、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜った。藤原の姓はここに始まる。鎌足公の没後、長男の定慧和尚(じょうえおしょう)は、留学中の唐の国より帰国し、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立した。701年(大宝元年)に神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至る。
重要文化財に指定されている十三重塔は鎌足公長子・定慧和尚が供養のために678年(白鳳7年)に創建した塔婆で、唐の清涼山宝池院(せいりょうざんとうちいん)にあった十三層の塔を模したと言われている。現在のものは1532年(享禄5年)に再建されたものであるが、木造十三塔としては我が国唯一のものである。
藤原鎌足公を奉る本殿は重要文化財に指定されており、日光東照宮造営の際のお手本となったことでも有名。(現在のものは1850年再建)拝殿・楼門・東西透廊は「千畳敷伽羅の間」と呼ばれ、現在は宝物殿をかねている。ここには大化の改新の絵巻物「多武峰縁起絵巻」や「鎌足公画像」などが展示されている。そのほか重要文化財に指定されている多くの建物が配置されている。
拝観時間=8:30〜16:30、拝観料=400円。

一番目を引く物はやはり十三重の塔であろう。神社の一番下からでも目にはいるのでまずはここに行ってしまう。拝殿には有名な鎌足の絵や大化の改新の絵巻物が展示されている。歴史に興味のある人は裏山の談山などにも登ってみるといいだろう。まあ、大化の改新自体がほんとにそんなたいそうなものだったのかという説もあるが、歴史の一面をかいま見るのもいいだろう。談山の頂上まではそんなに大変ではない。

訪問時のツーレポ
 ● 2003年04月 らいらっく&島を愛す お花見会 2003
石舞台(いしぶたい)
内容=★★★★☆ お得度=★★★★☆

石舞台全景
横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定され、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかと言われている。既に古墳上部の封土(もりつち)は失われ玄室部の巨大な天井石と側壁の上方が露出した姿になっているが、これは蘇我一族の滅びた後に圧制に虐げられていた民衆が上の土を取り去ったなど言われている。
昭和8年と10年に本格的な発掘調査が行われ、その結果、玄室の長さ約7.6m、幅約3.5m、高さ約4.7mで大小30数個のB花崗岩が使用されており天井に使われている石の重さは、北側が約64トン、南側が約77トン、総重量は約2,300トンという大規模な古墳であることが判明した。羨道の長さは約11.5m、幅約2.2mで玄室底部から中央部を南に通る排水溝がある。
「石舞台」の名の由来については、一般には石の形状からとされているが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやってきた旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたという話もある。
入園時間=8:30〜17:00、入園料=250円。

明日香地方でもっとも有名な古墳だろう。玄室の中にはいると「上の石が落ちてきたら即死だな」ということが頭に浮かんでくる。組み合わさった巨大な石と言ってしまえばそれまでなんだが・・・。周りは桜に囲まれているので桜の季節はとてもきれいである。
石舞台付近の見学は250円となっているが、ものがものだけに近くの小山から眺める事もできる。季節によってはここからの眺めの方がいいかもしれない。

訪問時のツーレポ
 ● 2000年09月 京都・奈良 修学旅行コース
 ● 2003年04月 らいらっく&島を愛す お花見会 2003
岡寺(おかでら)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★☆☆

仁王門からの眺め
663年(天智天皇2年)、草壁皇子の住んでいた岡の宮を仏教道場に改め、当時の仏教の指導者であった義淵僧正がもらいうけてお寺にしたところで1300年あまりの歴史を持っている。このため、本尊や義淵僧正像など国宝・重要文化財など多数の宝物を有している。
義淵僧正は奈良東大寺の基を開いた良弁僧正や菩薩と拝まれた行基、その他なら時代の仏教を興隆した多くの先駆者の師として知られている。
創建当時、この寺の近くに農地を荒らす悪竜がいた。義淵僧正はその悪竜を法力によって小池に封じ込め、大石で蓋をした。この伝説が岡寺の正式名称「龍蓋寺(りゅうがいじ)」の原点となっており、本堂前にその龍蓋池がある。こうした伝説から「災いを取り除く」信仰に発展し、観音信仰に厄除け信仰が加わって日本最初の厄除け霊場が形成された。
天平時代に作成された高さ4.6mの本尊の如意輪観音坐像は日本最大の塑像で、如意輪観音像としては最古のものと言われている。インド、中国、日本三国の土で弘法大師が作ったと言われ、重要文化財に指定されている。
4月下旬の石楠花(シャクナゲ)や5月のサツキ、秋の紅葉などでも有名な場所である。
拝観時間=8:00〜17:00(夏期)、8:00〜16:30(冬期)、拝観料=300円。駐車場はないが、民営(もちろん有料)の駐車場が近くにある。

厄除けのお寺として有名なところで、シーズンにはかなりの参拝客があるようだ。境内は花などに彩られていい感じなのでできれば人が少ないときに行くのがおすすめ。残念ながら自分が行ったときはちょうど花のない時期だった。高台にあるので眼下に明日香の町を見下ろす事ができて眺めがいい。厄除けに鐘でも突いてみよう。

訪問時のツーレポ
 ● 2003年04月 らいらっく&島を愛す お花見会 2003
亀石(かめいし)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

亀石
いつ何の目的で作られたか明らかではないが、河原寺の四至(所領の四方の境界)を示す標石だったのではないかと言う説もある。またこの亀石には下のような伝説がある。
大和が湖だった頃、湖の対岸に住む当麻とここ川原の間にけんかが起こった。長いけんかの末、湖の水を当麻に取られてしまった。このとき湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまった。何年か後に亀を哀れに思った村人達は亀の形を石に刻んで供養した。今、亀は南西を向いているが、もし西を向き、当麻をにらみつけたとき大和盆地は沼地に戻るという。

明日香地方に点在する石の中でも有名な亀の形をした石。よくありがちな亀に見える石という物ではなく、亀の形に加工している石。顔の表情がなんとものほほんとしていてなんかいい感じがする。

訪問時のツーレポ
 ● 2003年04月 らいらっく&島を愛す お花見会 2003
吉備姫王墓(きびつひめおおきみはか)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

猿岩
欽明天皇陵の南側に隣接する丘陵にあり、直径約8mの円墳。吉備姫王は欽明天皇の孫で、第37代・皇極天皇、第38代孝徳天皇の母にあたる。日本書紀によると吉備姫王は、皇極天皇2年9月に亡くなり、檀弓岡(まゆみのおか)に葬られたと書かれているが、この場所かどうかは判断できない。
1702年(元禄15年)に欽明天皇陵南側の水田から5体の石像物が掘り出され、明治初年頃にこの内の4体がここに移されたと言われている。(一体は高取城跡)4体のうち3体には背面にも顔があり、一見猿に見える事から「猿石」と言われる。現在は欽明天皇陵・吉備姫王墓よりもこの猿石の方が有名である。朝鮮渡来の石工の作だろうと考えられており、江戸時代には北から順に女、山王権現、僧、男と呼ばれていた。

話のネタに来てみてもいいかなという程度で、そんなに関心を引く物ではない。猿石と言われているが、どう見ても猿とは思えない。この付近にある他の人面席などと関連があるような感じである。

訪問時のツーレポ
 ● 2003年04月 らいらっく&島を愛す お花見会 2003
旧柳生藩家老屋敷(きゅうやぎゅうはんかろうやしき)
内容=★☆☆☆☆ お得度=★☆☆☆☆

建物内部の様子
柳生藩の幕末の家老・小山田主鈴(しゅれい)の屋敷で、母屋はほぼ創建当時の姿をとどめ、当時を知る貴重な資料となっている。
主鈴は岩代国(福島県)の出身で、江戸の柳生藩邸に仕え、その才覚を認められて文政9年(1828年)に国家老として奈良に移り住んだ。その後藩財政の立て直しに功績をあげ、弘化3年(1846年)に家督を譲って退隠。先に藩主・柳生丹馬守俊章から賜っていたこの地に建築したのがこの屋敷で、弘化4年(1847年)に着工、嘉永元年(1848年)に完成した。
昭和31年(1956年)に屋敷は人の手に渡ったが、昭和39年(1964年)に作家の山岡荘八氏の所有となった。山岡氏の死後、遺族により奈良市に寄贈され、整備・修復し、昭和56年(1981年)に一般に公開された。現在は小山田主鈴や旧柳生藩に関わるもとや、山岡氏の遺品の数々が展示している。
入場料=350円

建物はそれほど古さを感じないのでこれでこの値段というのはちょっと高いんではないか?という感じ。建物も柳生藩家老関係のものなので有名な柳生(柳生宗厳や柳生十兵衛)で知っている人は関係ない建物だからなあ。

訪問時のツーレポ
 ● 2004年07月 らいらっく 京都花火大会
一刀石(いっとうせき)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

一刀石
天及石立神社の奥にある約7m四方の花崗岩で、中央で2つに割れている。この岩には次のような言い伝えがある。柳生宗厳が修行中に天狗と出会い、この天狗と試合をした。宗厳が一刀のもとに天狗を切り捨てたと思ったが、刀はその場にあった巨石を二つに割っていた。

言ってみればただの二つに割れた大きな岩。自然現象で岩に亀裂が入り、割れてしまっていたものを後世の人が話を作ったというものだろうか?人がいないときに行くとかなりひっそりとしたところにあるのでちょっと怖い感じがする。
県道から細い道を600m位登ったところにあるが、観光客の車の通行は禁止となっている。ちなみに道路の先に駐車場はないので車で行くのは止めた方がいいだろう。といっても歩くとかなり距離があるので大変かもしれない。

訪問時のツーレポ
 ● 2004年07月 らいらっく 京都花火大会
金峰神社(きんぷじんじゃ)
内容=★☆☆☆☆ お得度=★★★★★

神社の鳥居
吉野山奥千本の入口に建つ神社で、吉野山の地主神である金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀っている。創建などについては不明であるが、藤原道長が詣でたことが記されている文献もあり、藤原道長が奉納したと言われる経筒が伝わっている。
境内には源平合戦の折、頼朝の軍勢に追われた義経が一時身を隠したと言われる義経隠れ塔がある。追っ手に包囲された義経は塔の屋根を蹴破って逃亡したと言われている。

神社の建物は特に特徴のあるものではなく、見るべきものは特にない。単に奥千本に行く途中に寄っていく程度のレベルだろうか?

訪問時のツーレポ
 ● 2007年10月 四国・南紀ツーリング
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★★★

3棟の連なる本殿
水を司る天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神とする神社で、1300年以上前の文献にもその存在が記されている。平安時代中期頃から「子守明神」と呼ばれるようになったが、これは「みくまり」がなまって「みこもり=身籠もり」となり信仰を集めるようになったと言われる。
社殿は慶長9年(1604年)に豊臣秀頼により再建された。本殿は正面に千鳥破風を三つ並べ、中央に一間社春日造、この両側に三間社流造が配置し、この3殿を1棟続きにしている。またこの本殿から拝殿、幣殿、楼門、回廊が中央の箱庭を囲むように配されている。
見学時間=8:00〜16:00、境内自由。

本殿は3棟がつながった特異な形をしており、境内もちょっとこじんまりしている感じでなかなかいい雰囲気。敷地的にこの広さしかできなかったのか、もともとこの広さにしたのかはよく分からないが、他の神社とはちょっと違った雰囲気を持っている。また子宝祈願にも訪れる人が結構いそう。
境内は自由であるが本殿の中には入ることが出来ない。また屋根にかなりの痛みがきているようなので、数年のうちには屋根の葺き替えがさえるかもしれない。吉野山を散策するのであればぜひとも寄っておきたいところだ。

訪問時のツーレポ
 ● 2007年10月 四国・南紀ツーリング
金峯山寺(きんぷせんじ)
内容=★★★★☆ お得度=★★★★★

仁王門と本堂
7世紀前半に修験道の開祖と言われる役小角(役行者)により開かれたという吉野山の中心に位置するお寺で、本堂と仁王門は国宝に、さらにお寺は世界遺産に登録されている。
本尊である金剛蔵王権現3体が安置されている本堂(蔵王堂)は平安時代以後何度も消失しており、現在の建物は天正20年(1592年)に豊臣秀頼により再建されたものである。高さ34メートル、四方36メートルという木造建築としては世界最大級であり、国内でも東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇っている。本堂の北に位置する仁王門は室町時代に再建されたものである。
境内自由。

本堂および仁王門のつくりは圧巻で、見ごたえは十分。吉野に来たのであればルート的にも必ずよるところだろう。桜の時期には本堂前の桜もいい感じになる。本尊は秘仏となっているため、公開のタイミングにあわないと見ることは出来ない。自分は宇宙皇子という小説で役小角のことを知り、小説の舞台になったのもこのあたりなのでさらに興味が引かれた感じだった。(^_^;;

訪問時のツーレポ
 ● 2007年10月 四国・南紀ツーリング
正倉院(しょうそういん)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

正倉院の外観
東大寺大仏殿の近くにある高床式・校倉造(あぜくらづくり)の倉庫で、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設。国内のものだけではなく、中国からペルシャから渡来したものも含まれており、当時の交易の資料としても重要。
正面約33m、奥行約9m、床下の柱の高さ約2.5mの断面三角形の材を20段重ねた校倉造で屋根は寄棟造の瓦葺。建設時期は不明であるが、光明皇后が聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した天平勝宝8年(756年)前後と言われる。湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったと言われているが、現在ではこの説は否定され、単に長年にわたり放置されていたことが良好な状態を保てた理由であろうと言われている。
正倉院の建物は国宝に指定されているが、中の宝物は宮内庁の管理下に置かれている。宝物は整理がすんでいるものだけでも9000点にのぼり、正倉院展と称してそのうちの数百点が内容を変えながら一般公開されている。
見学時間=10:00〜15:00(外観のみ)、見学日=平日

見学時間に建物をみることはできるが、建物の近くには近寄ることができないので、15mくらい離れた門の入口から眺めるだけとなる。なので東大寺の観光ついでに寄るようなイメージだ。ただ、思ったよりも大きな建物という印象を受ける。
年に一回は宝物展が行われているので、そのときには正倉院の納められていた宝物をみることができる。しかしながらほとんどのものは歴史的な宝物という位置づけて、現在で言う宝物とは意味が異なる。きらびやかなものをみることができるとは思わない方がいい。

訪問時のツーレポ
 ● 2007年10月 四国・南紀ツーリング