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史跡・建築物

姫路城 赤穂城跡 大石神社 辰鼓櫓
出石城 有子山城 日本標準時子午線表示柱
明石城 伊弉諾神宮 洲本城跡
竹田城 生田神社 -

姫路城(ひめじじょう)
内容=★★★★★ お得度=★★★★★

姫路城全景
信長の時代、黒田官兵衛孝高の勧めで羽柴秀吉が入城し、徳川家康の女婿池田輝政が拡張したお城で、国宝に指定されている天守の一つである。日本に現存する天守は姫路城、彦根城、犬山城、松本城、弘前城、丸岡城、松江城、高梁城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城の12城で、このうち国宝に指定されているのは姫路城、彦根城、犬山城、松本城の4城。

播磨の守護職・赤松則村が元弘3年(1333年)ここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346年)に城を構えたのが始まりといわれている。その後、小寺氏、黒田氏が引き継いだ。ただし、最近の研究では16世紀中頃の黒田重隆、職隆のときとする説もある。信長の時代、黒田官兵衛孝高の勧めで羽柴秀吉が大正8年(1580年)西方攻略の根拠地として入城し、翌9年3層の天守閣を完成させた。
その後、羽柴秀長、木下家定と続き、関ヶ原の合戦後、徳川家康の女婿池田輝政(52万石)が入封。慶長6年(1601年)から8年の歳月を費やして南の外堀を現在の山陽本線付近とするほどの巨大な規模の城域に拡張し、姫山に5層7階の天守を完成させた。池田氏3代の後に入封した本多忠政(15万石)は、長男忠刻とその千姫(徳川秀忠の長女で豊臣秀頼の妻だった女性)のために、西の丸を整備して、元和4年(1618年)今日の姫路城の全容が整った。
白漆喰の塗籠造で、遠くから見ると白鷺が飛んでいるように見えることから白鷺城とも呼ばれている。大天守や小天守、その他化粧櫓などの櫓や門など、国宝や重要文化財に登録されている建造物や内壕、中壕の大部分が残っており、日本有数の規模を誇る平山城として有名。また、日本で始めて世界遺産にも登録された建物である。場内には播州皿屋敷で有名な「お菊の井戸」などもある。
入場料は600円で南側の正面登閣口と東側の溺手登閣口から入城することが出来る。天守閣は他のお城と同様に城に関する資料が展示されており、渡櫓の奥にある化粧櫓には千姫の人形が展示されている。

ここは日本で一番見る価値のある城だと思う。ここまで多くの当時の建物や壕が残っている城はほとんどないし、ここまで大きな所も数が少ない。姫路に来たなら一番最初に訪れるべき場所だろう。姫路城から15分くらいで歩いていくこともできるが、バスやタクシーも便利。結構近いのでタクシーの運ちゃんには文句を言われるかもしれないが・・・。
かなり大きな城なので全部を見るのに1〜2時間はかかってしまうが、できれば2時間以上時間とってゆっくりと回ってみるべき場所だろう。観光シーズンに行くとかなりの観光客で階段の所は渋滞してしまうので注意が必要。出来れば平日など人がいないときに行ってのんびりと見て回った方がよい。開館時間と同時に中にはいると人が少なくてよい。ちなみに暴れん坊将軍のオープニングにでてくる城は江戸城ではなくこの城である。

訪問時のツーレポ
 ● 2001年01月 ソロツーリング 旅人の再会
 ● 2003年01月 山陽ツーリング
 ● 2003年09月 島を愛す にょろ&のもゆ結婚式
赤穂城趾 大石神社(あこうじょうし おおいしじんじゃ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★☆☆

大石神社入り口
浅野家初代藩主浅野内匠頭長直(刀傷をした長矩の祖父)が13年の歳月を費やして築城した変形輪郭式の海岸平城で、近世の名城として国の史跡に指定されている。現在残っているのは二層の隅櫓だけである。
三の丸には大石内蔵助ら四十七士を祀る大石神社があり、元禄時代の建物として唯一現存する大石旧邸長屋門がある。また、大石庭園は元禄の昔、大石内蔵助、リク夫妻、主税を始め子女がそぞろ歩きをし、嬉々として戯れ遊んだ池泉鑑賞式回遊式の江戸初期の古庭園である。義士宝物殿には四十七士の討ち入り関係の遺品や城請け取り関係の貴重な資料が展示されている。また同別館には浅野家および明治廃藩までの城主森家の先祖・森蘭丸ら戦国武将着用の甲冑武具が多数陳列されている。義士木造奉安殿には大紋鳥帽子姿の浅野長矩像、袴姿の大石良雄像を始め現代一流の木彫家が作成した四十七義士の木造が奉安されている。これら資料館4館の共通拝観料は400円。

忠臣蔵に興味がある人は面白いかも知れないが、そうでなければただの資料館といった感じの所。ただあまりに有名なところなので一度は見てみたいと言うところか?

訪問時のツーレポ
 ● 2003年01月 山陽ツーリング
辰鼓櫓(しんころう)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★★★

櫓を見上げる
辰の刻に城主が登城するのを知らせるための太鼓を叩く櫓ということから名付けられたもので、現在は出石の町のシンボルとなっている。
櫓本体は1871年(明治4年)に完成し、辰の刻(今の午前8時)に城主の登城を知らせるために太鼓を打っていた。1881年(明治14年)に池口忠恕がオランダ製の時計を寄進し、現在の時計台の姿となった。当時の時計は入れ替えられ、現在稼働中の時計は3代目。
町のシンボルとなっているので、多くの観光客がこの前で写真を撮っている。別に有料でもないし、時間も関係ないので旅の記念に写真を撮るといったレベル。写真を撮れるようにちゃんとスペースまで作られているしね。人が少ないときであればバイクを前に止めての撮影も可能かもしれない。
櫓はかなり古いものかと思っていたんだが、完成は明治時代と比較的新しい。城主の登城を知らせるというので江戸時代のイメージだったんだが・・・。

訪問時のツーレポ
 ● 2005年11月 丹後半島へ
 ● 2008年05月 らいらっく 福井に魚を食べに行こう
出石城(いずしじょう)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

本丸跡
本丸跡からの展望
戦国時代までは有子山の山頂に城を構えていたが、江戸時代に入り麓に築城されたのが現在の城である。但馬国の居城となったが、天守閣は造られなかった。明治時代に入り廃城となったが、現在は登城門や隅櫓が復元されている。
慶長9年(1604年)、関ヶ原の合戦後に但馬国の藩主となった小出吉英は有子山山頂にある有子山城から山の麓に居城を移した。その後、城主は小出氏9代、松平氏1代、仙石氏7代と移り、明治維新を迎えた。昭和43年(1968年)に本丸跡に隅櫓が復元され、その後登城門や登城橋が復元された。また本丸跡には明治時代に仙石氏の旧臣が建立した感応殿が建っている。
江戸時代に三大お家騒動の一つにあげられる仙石騒動(仙石左京と仙石酒造という二人の家老による勢力争い)が起こり、幕府の調停により石高5万8千石から3万石に減封された。
城内自由。

もともと天守閣がなくて現在も櫓が復元されているだけなのでそんなに見応えはないが、登城門をこえたところから見上げる櫓はなかなかいい。また本丸跡からは出石市街地を一望することが出来るのでちょっと階段を登らないといけないが、行ってみてもいい感じ。街中の散策のついでに城にも寄るといった感じの所である。
出石のガイドブックに江戸時代の三大お家騒動の一つと書かれているが、一般的に三大お家騒動といって挙げられるのは伊達騒動(仙台藩・60万石)・加賀騒動(加賀藩・100万石)・黒田騒動(福岡藩・50万石)であり、たかだか(といっては悪いが)6万石のお家騒動が三大お家騒動にあげられるのか?という気がする。調べてみても三大としてあげられているのは上記3つで、出石のHPだけ三大お家騒動と書かれているんだが、なぜか他の二つはあげられていない。このことから出石がそう呼んでいるだけなのではないかと思われる。(^_^;;

訪問時のツーレポ
 ● 2005年11月 丹後半島へ
 ● 2008年05月 らいらっく 福井に魚を食べに行こう
有子山城(ありこやまじょう)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

山の上に残る石垣
山の上からの展望
戦国時代に山名氏により標高321mの有子山の山頂に築城されたお城で、出石城が出来るまではこの地域の居城だった。
室町時代の有力守護大名・山名氏により治められていたが、永禄12年(1569年)に織田信長の配下・羽柴秀吉によって山名氏の居城・此隅山城は落城。その後、天正2年(1574年)に再び但馬国に戻った山名祐豊によって有子山に居城を移したのがこの有子山城である。その後再び進行してきた羽柴秀吉により落城し、但馬山名氏は滅び、秀吉の配下・前野将右衛門長康、ついで小出吉政が入城。慶長9年(1604年)、但馬国の藩主となった小出吉英により有子山城から山の麓に居城を移され、この城の歴史は終わりとなる。
規模の大きな山城で、山頂部の本丸を中心にその西方に6段の曲輪(くるわ)が階段状に並び、南東に千畳敷と呼ばれる全長124mにも及ぶ曲輪を有している。主郭部には高さ4〜5m 程の石垣が残っており、中世から近世への過渡期の形態をよく残している。
雰囲気としては「夏草や兵どもが夢の跡」という感じ。石垣が草に覆われて昔城だったという雰囲気が良く出ている。特に整備をされていないので石垣以外には何もない。山頂からは眼下に出石の町並み、遠くに山々を望むことが出来て展望はとても良い。
麓から30分くらい登山道を登ってやっと到着できるところで、かなりの急斜面を登るため、なめた格好で行くと痛い目に遭う。ほんとに登山と考えて登った方がよい。間違いなくハイキングコースではないし、足を滑らせたら大けが間違いなしである。山の反対側に車の通れるような道があったのでもしかしたら林業用の道があるのかもしれない。

訪問時のツーレポ
 ● 2005年11月 丹後半島へ
日本標準時子午線表示柱(にほんひょうじゅんじしごせんひょうじはしら)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

標準柱
日本標準時の基準である東経135度子午線の位置を示す柱で、明石の天文科学館近くの高台に設置されている。
昭和3年(1928年)に京都大学観測班が天体観測を行い、東経135度子午線が人丸山上を通過していることが分かった。これを受けて、昭和5年(1930年)1月、月照寺山門前にこの表示柱が建設され、「トンボの標識」の愛称で呼ばれるようになった。その後、昭和26年(1951年)の再観測により、現在の位置(11.1m移動)に移された。
柱は高さ7m、鉄柱の直径15cmで、上部のカゴ状の球は地球を表し、球の上には「あきつ島」(日本の異名)を象徴したトンボ(あきつ)がのっている。

天文科学館の近くの遊歩道にあるんだが、遊歩道の脇にひっそりと立っているただの外灯のような感じ。説明を見ないとこれが表示柱とは分からない。そんなに見る価値はあるという物ではないが、近くまで来たのなら話のネタに寄ってみてもいいだろう。特に天文科学館に行ったのなら階段を上ってすぐだしね。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年01月 青春18切符の旅
明石城(あかしじょう)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

公園入口から見る櫓と土塀
大坂の陣の戦功により、この地に移ってきた小笠原忠真により築城されたお城。もともと天守閣は造られず、本丸の四隅に建てられた櫓のうち、現在も2基が残っている。
1617年(元和3年)に小笠原忠真が信州松本より現在の明石城の南西にあった船上城に入封した。翌年に西国諸藩に対する備えとして二代将軍徳川秀忠より築城を命じられ、姫路城主だった本多忠政の指導の基、築城された。その後この地は幕府直轄地となり城主は入れ替わるが、松平氏の10代目で明治維新を迎える。
本丸に天守台は作られたが、天守閣は造られず、本丸の四方に坤(ひつじさる・南西)、巽(たつみ・南東)、乾(いぬい・北西)、艮(うしとら・北東)の三重の隅櫓、二の丸、西曲輪、帯曲輪には6棟の二重櫓、三の丸、北の丸には11棟の平櫓が築かれた。このうち坤櫓は伏見城から、巽櫓は船上城から移築されたものといわれている。
明治維新の際に武士階級の象徴でもあったお城の撤去が行われたが、地元の保存運動により、坤櫓と巽櫓が残された。阪神大震災の際に大きな被害を受け、1999年に修復作業が完了した。修復にいたっては櫓を持ち上げて移動させ土台の修復を行うという工法が採用された。その際、櫓を結ぶ土塀も復元された。
期間限定で坤櫓と巽櫓が交互に公開されている。(雨天時閉鎖)入場は無料。

明石駅の方からみると真っ白な二つの櫓とその間の土塀を望むことが出来る。城跡の大部分は公園として整備されているため、かなりの広さとなっている。石垣もかなり残っているので散策がてら散策するのもいいかもしれない感じ。
櫓は最近修復されたせいもあるが、近くで見ても再建されたものかと思ってしまうぐらいきれいな建物になっている。内部は昔ながらの木材が残っているので年代を感じるが、外壁と内部があまりにもアンバランス。もともと天守閣はないが、隅櫓も結構な大きさなので、小さな藩のお城の天守閣くらいはある。観光する場合はちょっと物足りない感じかもしれない。まあ無料なので、せっかく寄ったのなら入ってもいいだろう。ボランティアがかなり細かく説明してくれるので、興味がある人は声をかけてみよう。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年01月 青春18切符の旅
伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)
内容=★☆☆☆☆ お得度=★★★★★

本殿
古事記や日本書紀に書かれている国生み・神生みの夫婦神・イザナギ(伊邪那岐・伊弉諾)・イザナミ(伊邪那美・伊弉冉)を祀った最古の神社で、淡路国の一の宮である。
天地開闢において神世七代の最後に生まれた兄妹がイザナギ・イザナミである。この二人は夫婦となり、淡路島、四国、九州、隠岐などの大八島(文献により異なる)などの島々、森羅万象の神々を産み落とすが、イザナミは火の神・カグツチを生んだ際に陰部にやけどを負い死んでしまう。イザナギはイザナミに会いたくて黄泉の国まで訪ねていくが、ウジにたかられた死体を見て逃げ出してしまう。その後黄泉の国の汚れを落とすために日向国で禊ぎを行うとさらに新たな神々が生まれ、最後に生まれたのがアマテラス・ツクヨミ・スサノオである。ちなみに二人の間に生まれた最初の子供はヒルコであるが、二人の子供としては数えられないことが多い。
国生みの際に最初に生んだのが淡路島で、その後イザナギが幽宮(かくりのみや)を構え余生を過ごしたのがこの神社の起源といわれる。当初はイザナギのみが祀られていたが、昭和に入りイザナミも一緒に祀られるようになった。
境内には樹齢800年とも900年とも言われる夫婦楠があり、元々2本の楠が一株に成長したものといわれる。御神霊が宿る御神木と信仰されている。

神社の歴史は古い(まあ神の時代からなので歴史だけは2000年以上ということになる)みたいだが、明治時代以降の天皇中心の時代に大きく取り出されたような感じがする。なので建物は立派なんだがそんなに歴史があるわけではない。古事記や日本書紀の神話の舞台の一つとして見るような感じがする。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年07月 真夏の四国へ
洲本城跡(すもとじょうあと)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

天守の形の展望台
山頂に残る石垣
標高133mの三熊山の山頂に建てられた山城で、現在も多くの石垣が残っており、国の史跡に指定されている。天守跡には天守閣の形をした展望台が造られており、大阪湾を一望できる。
室町末期の大永6年(1526年)に安宅治興(あたぎはるおき)により築城されたのが始まりといわれる。天正9年(1581年)に信長の配下・羽柴秀吉・池田元助により攻められ開城。信長亡き後、跡を継いだ秀吉により四国が平定され、仙石秀久のあと脇坂安治が洲本城主として入城し、現在に残る規模の城に大改修された。慶長16年(1610年)に由良城に中心が移ったため廃城となったが、元和元年(1615年)に大阪の陣の軍功により徳島藩主になった蜂須賀至鎮(はちすがよししげ)は稲田氏を城代として山の麓に御殿(下城)を築き、明治を迎えた。
城跡は東西800m、南北600mの範囲に及び、本丸跡、東丸跡などの多くの石垣が残る。天守台の上には天守閣の形をした展望台が建っている。また三熊山に住んでいたという伝説がある芝右衛門狸を祀った祠も建っている。

廃城になってそのまま放置されていたせいか、石垣が綺麗に残っていて城好きには見応えがある。しかし建物がないので一般的な人にはあまり興味がわかないかもしれない。天守閣はほんとに城の形をしているだけの展望台なので見るべき所は展望だけだが、遠くから写真を撮るにはいい感じに写るかもしれない。
駐車場までは車で行くことが出来るが、山の麓からの登山ルートもあるらしい。途中には石垣もあるのでここを歩くのもいいらしい。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年07月 真夏の四国へ
竹田跡(たけだじょう)
内容=★★★★☆ お得度=★★★★★

山の上に見える石垣群
天守台からの展望
古城山(標高353.7m)の山頂に築かれた城で、その縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう)とも言われる。約400年前に廃城となったが、大規模な石垣が当時のまま残っている。
15世紀中頃に但馬守護・山名氏の支城として築城されたことに始まり、秀吉の但馬攻略で弟の秀長に与えられた。その後、赤松広秀が城主となった際に13年の年月をかけ、現在のような規模に大修復が行われた。しかし関ヶ原の合戦で西軍に荷担し、のちに家康に帰参するが、結局は家康の命により切腹することとなり、赤松氏は断絶、城も廃城となった。
縄張りは、南北約400m、東西約100mと山頂一帯を占めている。天守台を中心に、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳、花屋敷と配置されている。
見学自由。

一般的にはあまり知られていない城だと思われるが、城の規模で言うと全国屈指といってもおかしくないかもしれない。400年という月日を感じないくらいきれいに石垣が残っており、他の城にあるように木々に覆われているわけでもない。天守台からは城の全容を一望できるのが迫力である。途中の道から山頂に石垣が見えたときには規模の大きさに驚くくらいである。
駐車場からは急な斜面を登っていかなければならないため結構大変であるが、大手門の方からだとかなり楽に行くことができる。ただしこちら側には駐車場がないので道路を歩いていくことを考えるとどっちもどっちといった感じだ。

訪問時のツーレポ
 ● 2008年09月 西日本ツーリング
生田神社(いくたじんじゃ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

境内の様子
日本書紀では神功皇后の三韓外征から帰途の際に女神を祀ったことに始まる神社と伝えられる。また、神社の社領・神戸(かんべ)がこの地・神戸の由来になったとも言われる。社殿の奥には源平合戦の戦場にもなった生田の森の一部が残っている。
生田神社は「生きた」「生まれた」と読めることから健康長寿の神として、御祭神が稚日女尊ということから子供の健やかな成長を願って参拝する人が多い。また過去に水害や戦災、最近では阪神大震災により社殿は崩壊したが、そのたびに復興したことから、蘇る神としても崇拝されている。他にも恋愛成就など色々な御利益をうたっている。
境内自由。

プロ選手の必勝、健康祈願や最近では結婚式により有名な神社であるが、思ったより小さな神社である。もともと地方の一神社という感じなので当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、境内はホントに普通の神社という感じだ。結構拍子抜けする人は多いかもしれない。奥の生田の森はさらに狭くて街中の公園と言った程度だ。まあ話のネタに近くに来たら寄ってみる程度か?
社殿も何度建て替えられているので歴史的な価値はない。何度も復興を遂げたから「蘇る神」という解釈もあるみたいだが、何度も被害を受けているという解釈をすると縁起が悪いのではないのか?(^_^;; とか思ってしまうのは自分だけなのか?( ̄~ ̄;) ウーン

訪問時のツーレポ