山 口 県

史跡・建築物

錦帯橋 萩城 松下村塾
東光寺 吉田松陰誕生地・墓所 瑠璃光寺
赤間神宮 防府天満宮 毛利庭園・毛利博物館
松尾神社 - -

錦帯橋(きんたいきょう)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★☆☆

川岸から眺めた錦帯橋
岩国市を流れる錦川にかかる5連のアーチ型木造橋。橋の長さは210m、直線距離で193.3m、幅5m、高さ6.6m。釘をほとんど使わず、巻き金とカスガイで組み上げられた組み木の技法により建設されている。
延宝元年(1673年)に第3代岩国藩主・吉川広嘉によって創建されたが、翌年に起こった洪水により一部流失。再建後、老朽による補修や架け替えを行なっていたが、昭和25年(1950年)のキジア台風により流失してしまった。翌年から再建に取りかかり、昭和28年(1953年)に完成した。平成13年(2001年)より平成の架け替え工事が行われ、2004年春には完成。
24時間通行可、通行料金往復=300円。

かなり急なアーチ状の橋で、木を何重にも組み合わせているのがよくわかる。一度は渡ってみてもいいが、写真は遠くから撮らないと意味がない感じ。ちなみにこの橋を渡らなくても近くの立派な橋で対岸に渡ることはできるので、単に観光用に残っているだけのものである。
対岸には岩国城や美術館などがあり、白蛇を見ることができる。また、6月初旬には菖蒲が見頃となる。なお、岩国城は鉄筋で建てられたもので、元々天守閣があったところとは別の位置に建っている。歩いていくことも可能だが、素直にロープウェイを使った方がいいだろう。ここに来て見るべきものは錦帯橋くらいなのでそんなに時間は必要ない。
なお、1998年5月6日、この橋を軽トラックで渡った3人組が逮捕された。彼らは中学校の同級生で24歳という。夜中にトラックで渡っていた目撃情報と現場に残った傷から逮捕につながった。修理には220万ほどかかったらしいが、賠償請求はされたんだろうか?

訪問時のツーレポ
 ● 1995年04月 中国ツーリング
 ● 2000年05月 オーストラリア メンバー再会 Part-1
 ● 2002年05月 Dr.Kの転職祝い in 牛窓
 ● 2004年02月 慰安旅行 宮島へ
 ● 2011年01月 山陽地方旅行-1
萩城(はぎじょう)
内容=★☆☆☆☆ お得度=★★☆☆☆

門からの眺め
萩城はその内包する指月山(しづきさん)から指月城とも言われるお城で毛利輝元が防長(周防・長門)2ヶ国の居城として築城したお城である。現在は解体され、石垣と堀が残るのみ。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦で西軍の大将に祭り上げられた毛利輝元は、総大将としての責任を取らされて中国8ヶ国(120万石)から防長(周防・長門)2ヶ国(36万石)に減封された。その後、広島に変わる新たな居城として三田尻(防府市)の桑山、山口の高峰、萩の指月山を候補地として幕府の許可を求めた結果、萩に築城する事となった。慶長9年(1604年)から阿武川河口の指月山に築城を開始し、慶長13年(1608年)に完工する。桃山初期の形式を示す白亜5層の天守閣を有し、初層が石垣の外に張り出し俯射装置として利用できるようになっていた。また、指月山頂には陸と海とを監視する為に詰丸を置いていた。ここには狭いながらも本丸・二の丸があり、矢倉数カ所、天水溜二カ所などを有していた。
明治7年(1874年)に解体されるまでの270年間、毛利家13代に渡り萩城の象徴として威容を誇っていた。現在は公園として整備されており、石垣と堀が残っているだけである。境内には藩主毛利敬親の別邸にあった茶室を移築した自在庵(花の江茶亭)、東郊中津江にあった寄組士梨羽家の別邸茶屋で、城内煤払いのさいに藩主が休んだ事から名前の付けられた梨羽家茶室(煤払いの茶室)、萩の有志が山口にある豊栄、野田両神社の分社として建立した志都岐山神社などがある。また、二の丸の土塀の一部、東園、詰丸の城壁の一部などが復元されている。
指月山の詰丸跡へは遊歩道を歩いて約20分で行く事が出来る。内部へは自転車の乗り入れ可。
入場料=210円(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の拝観料含む)拝観時間=8:00〜18:00(冬季変更)

中に入っても特に何があるわけではないので、表から見るだけで十分と言った感じかも知れない。わざわざ入るまでもないだろう。(表から見るのが一番綺麗に見えるし、写真を撮るなら入口の碑の所唐が一番ベスト)詰丸跡へは遊歩道が出来ているが、結構険しい。残念ながら自分は登っていないのでどんなところなのかは不明。ちなみに共通券で入れる旧厚狭毛利家萩屋敷長屋は見なくてもよいレベル。
今はどうか分からないが、日が落ちてからだと受付の人がいなくなる為勝手に中にはいる事が出来た。まあ、何も見えない状態なので中に入っても仕方がないけどね。

訪問時のツーレポ
 ● 2003年07月 中国・四国ツーリング
松下村塾(しょうかそんじゅく)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★★★

松下村塾の建物
松陰神社の境内にあり、吉田松陰が幽閉時代に弟子を教育した建物。松下村塾の他に松陰の幽囚された杉家旧宅、吉田松陰歴史館、松陰遺墨展示館もある。神社の境内に大きな駐車場も整備され、おみやげ屋さんも建ち並び完全な観光地となっている。
吉田松陰は天保元年(1830年)、萩松本村の藩士、杉百合之助(26石)の次男として生まれ、幼くして山鹿流兵学師範の家柄である吉田家(57石)を継いだ。19歳の春、独立の師範となって藩校明倫館で多くの生徒に教えたが、21歳の秋から学問研究の為に肥前平戸に遊学し、その後、江戸、水戸、東北地方、長崎と旅を続け、沿道各地を視察し、多くの学者や志士と交流した。
嘉永6年(1853年)6月、アメリカ軍艦が浦賀に来航するに及んで、海外の事情を視察、研究する必要を感じ、翌年3月、下田からアメリカの軍艦に便乗しようとしたが失敗に終わった。その年10月に萩に送られ、野山獄に入れられた。この後、実家杉家に謹慎を命じられる。この入獄および謹慎中に多くの書を読み、自ら原稿を書き、松下村塾を継承して多くの青少年に教えた。
安政5年(1858年)、幕府が勅許を得ず外国との通商条約に調印してから言動が特に激しくなり、幕府は類が藩主に及ぶのを恐れて再び野山獄に投じた。ついで幕命により江戸に送られ、世に言う安政の大獄の難にあい、安政6年(1859年)、10月27日「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」の辞世の句を残して江戸伝馬町の獄で処刑された。享年29歳。
吉田松陰幽囚の旧宅は安政2年(1855年)に実家お預けとなったときに使用された建物である。松陰はこの建物の一室(3畳半)に幽閉されていた。ここで父兄や近親者が松陰の講義を聴き、やがて入門者が増えて私塾の形態となった。この講義は安政4年(1857年)11月に松下村塾に移るまで続けられた。
松下村塾は吉田松陰が実家の小屋を改修し、教室としたもので、叔父・玉木文之進が開いていた塾の名前に由来する。安政4年(1857年)11月より塾として使用し始め、翌年3月に塾生達と共に10畳半の一室を増築した。その年の11月には野山獄に再入獄されることとなったため、野山獄出獄から再入獄までの3年間の内、最後の1年間のみ使用されたものである。
吉田松陰幽囚の旧宅と松下村塾は現在無料で公開されており、建物の外部から中の様子を見る事が出来る。建物の中にはこの松下村塾で学び、その後の歴史に大きく関わった人物の写真が展示されている。
松陰遺墨展示館(210円)は松陰直筆の永訣の書、留魂録、士規七則、旅日記などが展示されている。また吉田松陰歴史館(650円)は蝋人形で松陰の生涯を説明した資料館となっている。

松下村塾、吉田松陰と言えば歴史に興味ない人でも名前は知っていると言うくらい有名なところ。歴史に興味ある人、特に幕末から明治にかけての時代に興味がある人にはたまらない場所だろう。
松下村塾は思ったよりも小さな建物でちょっとビックリするかも知れない。もともと小屋だったものを塾としてつかったんだから仕方がないんだが・・・。幽閉された旧宅は結構大きな建物で、部屋の数もかなり多い。この二つの建物は無料で内部を閲覧できるのでここに来たら絶対に見るものだろう。松陰遺墨展示館は吉田松陰に興味がある人にはお勧めの場所。直筆の手紙や書などが多く展示されている。ただし吉田松陰歴史館は値段が高いのであまり見なくてもいいと思う。全く吉田松陰について知らない人には内容が分かりやすくていいかも知れないが・・・。

訪問時のツーレポ
 ● 1995年04月 中国ツーリング
 ● 2003年07月 中国・四国ツーリング
東光寺(とうこうじ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★☆☆

大雄宝殿全景
毛利家藩主墓所
元禄4年(1691年)萩藩3代藩主毛利吉就が創建した全国屈指の黄檗宗(おうばくしゅう、禅宗の一派)の寺院である。江戸時代には堂塔40棟、僧侶80人を数えたといわれる大寺院だった。現在は、総門、三門、鐘楼、大雄宝殿の建物が当時の面影をしのばせている。
吉就は若くして深く黄檗宗に帰依し、 京都府宇治市の本山黄檗山万福寺に範を求めて広壮な堂宇を建立し、萩出身の高僧慧極道明禅師を開山に迎えた。吉就の歿後ここに墓所を営み、毛利氏菩提寺となった。寺の奥の毛利氏廟所には萩藩主3代吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元、並びに各夫人10基の外、枝葉近親者20余基の墓があり、藩主五公、吉元の嗣子宗元の業蹟を記した神道石碑6基、華表5基、重臣諸家により献上した石灯篭約500基が整然と立ち並んでいる。毎年8月15日に送り火として開かれる万灯会では、その全ての灯籠に灯が入れられて幻想的な雰囲気となる。
建物は中国の明時代の末から清時代の初めにかけての黄檗伽藍様式で、伽藍配置は龍の形を表わしたものと伝えられている。現在は総門、三門、鐘楼、大雄宝殿、大方丈書院が残っており、その多くは国の重要文化財に指定されている。
入場料=300円、入場時間=8:00〜17:00。

建物、及び毛利藩主の墓はなかなか見応えがある。ただ建物の中に入られないのがちょっと残念なところである。もちろん門の上にも上がることはできない。墓には灯篭が整然と立ち並んでいるので、これに火が入ったときはかなりきれいだろうと思われる。

訪問時のツーレポ
 ● 2003年07月 中国・四国ツーリング
吉田松陰誕生地・墓所(よしだしょういんたんじょうち・ぼしょ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

生誕地に建っている碑
松陰の墓
吉田松陰誕生地は松本椎原台団子岩にあった茶屋山荘を実父杉百合之助の妻・滝子の父・村田右中が文政8年(1825年)に手に入れて百合之助に送られたもの。吉田松陰は天保元年(1830年)士禄26石杉家第五代の二男としてここに生まれた。そののち父百合之助が盗賊改方頭役についたため、嘉永6年(1853年)現在の松陰神社境内の杉家旧宅に引っ越した。西向平屋建ての樹々亭は、玄関3畳、表座敷6畳、隠居部屋3畳、居間6畳と台所、物置、納屋、厩舎からなっていた。
現在は建物の敷石と松陰産湯の井戸が残っているのみで、近くに吉田松陰誕生地と書かれた碑と「松陰先生の出生せられし杉氏邸宅の址」と刻まれた小さな石がある。
吉田松陰の墓は、表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏称寅次郎安政六年巳未十月二十七日 於江戸歿 享年三十歳」と刻まれ、遺髪を埋めて百ケ日忌に建てられたものである。墓前には、門人の佐世一誠(前原一誠)、久坂誠(久坂玄瑞)、品川日孜(品川弥二郎)、伊藤和卿(伊藤博文)、高杉春風(高杉晋作)など17名が寄進してその名を公然と刻んだ水溜め、花立て、灯籠が供えてある。この墓所には松陰の他にその一族である杉、吉田、玉木、久坂各家の人々と高杉晋作、吉田稔麿など松陰にゆかりの深い日との墓が建ち並んでいる。
この近くには吉田松陰と金子重輔の師弟が、下田沖の米艦を見つめる姿の銅像が建っている。

吉田松陰の誕生地と墓地の両方を見る事が出来て便利。誕生の地はタダの草むらに敷石が残っているだけで、あとは碑がたっているだけやんと言う感じ。お墓の方は「松陰のお墓」!と言う事だけなので興味がない人には何も面白くないだろう。お墓に刻まれている名前は自分たちが知っている名前で刻まれていないので誰の事だろうと思うかも知れないが、ぞれぞれ維新時代の有名人である。
この付近は高台になっており、萩の町を一望する事が出来てなかなか眺めがよい。少し時間があれば寄ってみるのもいいだろう。誕生地や墓は吉田松陰に興味がある人にはいいという感じ。

訪問時のツーレポ
 ● 2003年07月 中国・四国ツーリング
瑠璃光寺(るりこうじ)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★★★

五重塔
室町時代に建てられた五重塔で有名なお寺で、山口市観光の中心となっている。五重塔は一年を通じて日没から23時までライトアップされている。
室町幕府将軍足利義満と戦って戦死した大内義弘の霊を弔うため、弟・盛見が嘉吉2年(1442年)に大内義弘の建立した香積寺境内に建てた供養塔が現在の五重塔である。高さ31.2mの供養塔は檜皮葺で造られ、大内文化の最高傑作といわれている。江戸時代に入り香積寺は萩に移されたが、五重塔はそのまま残された。その後、瑠璃光寺がこの地に移ってきて瑠璃光寺の五重塔といわれるようになった。
拝観無料、拝観自由。

五重塔の前には池などもあり、梅や新緑、紅葉とどの季節でもなかなかいい雰囲気となっている。本堂、毛利家墓所、うぐいす張りの石畳などあるが、これは時間があれば寄ってみたらいい程度で、五重塔だけ見れば十分といった感じ。写真やテレビでしか見たことはないんだが、やはり夜のライトアップの時の方が見応えはあるようだ。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
赤間神宮(あかまじんぐう)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

赤間神宮の竜宮城をイメージした門
耳なし芳一の像
源平合戦で亡くなった安徳天皇を祀った神社。平家の七盛塚、赤間神宮を舞台にした怪談「耳なし芳一」ゆかりの芳一堂、安徳天皇の陵墓(阿弥陀寺御陵)などもある。
安徳天皇は、先代の高倉天皇と平徳子(建礼門院)の子供で平清盛の孫にあたり、平家の都落ちに帯同した。寿永4年(1185年)3月24日、関門海峡で早朝より始まった平家と源氏の戦いは当初平家方の有利に運んだが、徐々に源氏方が盛り返し、潮の流れが変わると共に優劣は逆転した。敗北を悟った平家方の武将は次々と海へ身を投じ、安徳天皇も二位尼に抱かれて入水した。
幼い安徳天皇を偲んで建久2年(1191年)に建てられたのが阿弥陀寺で、建礼門院ゆかりの尼が奉仕した。明治の廃仏毀釈で安徳天皇神社となり、昭和15年(1940年)に官幣大社に列格し、赤間神宮となった。
安徳天皇の命日に当たる5月2日(旧暦3月24日)から3日間にわたり行われる先帝祭では、絢爛な外八文字道中などの行事が行われる。また境内には平知盛・平教経・平時子など平家一門の墓(七盛塚)や琵琶法師・耳なし芳一のゆかりの芳一堂がある。
境内自由。

入口にある竜宮城をイメージした朱色の門は目をひくが、建物自体は昭和になってから建てられたものなので歴史的な価値はない。源平合戦の歴史的な場所と言うことで、壇ノ浦とともに観光するような印象である。先帝祭はかなり有名で外八文字道中はいつも報道されているが、直接見に行ったことはない。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年06月 門司港レトロ観光
防府天満宮(ほうふてんまんぐう)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

防府天満宮の本堂と鳥居
京都から大宰府に左遷され亡くなった菅原道真を祀る神社で、日本三天神の一つ(福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮)に上げられることがある。(大阪の場合がある)学問に秀でていたことから学問の神として崇拝されている。
九州の太宰府へ流刑となった菅原道真が途中この地に滞在し、「身は筑紫にてはつるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来らん」と誓い立ち去った。そして延喜3年(903年)菅原道真公のなくなった翌年の延喜4年(904年)にこの地に社殿が建てられたものがこの天満宮である。このため日本で最初の天満宮といわれている。
建物は19世紀後半から昭和にかけての再建である。また歴史館には宝物が収納されている。

日本初の天満宮で三天神の一つに挙げられることがあるが、やはり太宰府天満宮、北野天満宮の二つの名前が大きすぎてあまり知られていないという印象だ。梅の時期にタイミングが合えば寄ってもいいかなという程度である。

訪問時のツーレポ
 ● 2008年09月 西日本ツーリング
 ● 2013年09月 山口ツーリング
毛利庭園・毛利博物館(もうりていえん・もうりはくぶつかん)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★★☆

邸宅から見る庭園
毛利邸宅の内部
公爵となった旧長州藩主毛利氏のために大正5年(1916年)に建てられたもので、伝統的な和風建築と最新技術とを融合させた邸宅となっている。庭園はひょうたん池を巡る廻遊式で、四季折々の景観が楽しめる。また邸宅の一部が改造され、毛利元就ゆかりの品をはじめ、国宝を含む約2万点の宝物を所蔵、展示する毛利博物館となっている。
戦国時代の毛利元就以来、西の雄として名をはせた毛利家。明治維新により公爵となった藩主のために旧藩主の井上馨によって明治25年(1892年)に建設が決められたが、その後の戦争により着工が遅れ、大正元年(1912年)9月より建設が始まり、大正5年(1916年)に完成した。完成後、大正天皇や昭和天皇もこの邸宅に宿泊している。
入館時間=9:00〜17:30(夏期)、9:00〜17:00(冬期)、入館料=庭園=400円、博物館=700円、共通=1000円。

明治維新の後、長州の殿様が住むために建設されたものなのでそんなに歴史があるわけではないんだが、さすがに長州の殿様用に造られただけあってかなりの規模である。当時の建設技術の粋を集めたような建物で、高級な建築材料もふんだんに使われているのは建築などに詳しい人にはかなり興味をそそられるものかもしれない。庭園も広々としているのでのんびりと散策するにはいいところだ。
建物の2階から望む庭園と防府の町並みはなかなかいい感じ。しばらくここでくつろぐのもいいだろう。展示室には毛利家由来のものが並んでいる。このあたりは歴史に興味がある人には面白いかもしれない。

訪問時のツーレポ
 ● 2008年09月 西日本ツーリング
松尾神社(まつおじんじゃ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

本殿
川棚温泉の守護神である青龍権現を祀る神社で、天正年間(1573〜1592年)に京都右京区にある松尾神社から御分霊を勸請奉斎したもの。現在の社殿は萬治3年(1660年)に再建したもの。
遙か昔、この地に青龍が住んでいたが、地震により死んでしまった。哀れに思った里の人が、青龍の霊を慰めるために神前で太鼓を打ちならしましたところ、青龍の住んでいた跡から温泉がわき出てきた。(文献により内容が若干異なるみたい)
境内自由。

山の山頂にある神社で、川棚温泉の守護神を祀っているせいか、本殿の正面に青龍の絵が掛かっている。建物自体はそれなりに古いんだが、装飾関係はあまり見るところはない。補修もされているんだが、ちょっと適当な感じだ。開くまで地方の地元にある神社のような感じ。辺りの雰囲気はいいので、川棚に来たときに散歩がてらやってくるくらいの所か?

訪問時のツーレポ
 ● 2010年03月 川棚温泉へ