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史跡・建築物

桃太郎神社 足助城 長篠城
犬山城 - -

桃太郎神社(ももたろうじんじゃ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

桃太郎の像
犬山城から川沿いに北上したところにある桃太郎の生誕の地と言われるところに建つ神社。境内には桃太郎やおじいさん、おばあさん、鬼などの人形が設置されている。有料で「カッパの手」と言われるものを見ることができる。(200円)せんたく石と言われるおばあさんの足跡の残った石もある。(足跡が石につくくらい体重が重いのか?(^_^;;)
ここに生まれた桃太郎は鬼を退治した後、この裏にある山に戻っていった。そうすると裏の山はももの形になったそうだ。その後里の人がこの桃太郎をたたえて神社を造ったのがこの桃太郎神社の始まり。

桃太郎と言えば鬼ヶ島・きび団子で有名な岡山と思うんだが、なぜここにあるのかは不明。岡山まで鬼退治に行ったのだろうか?(^_^;;
夜に行くとあちこちにおかれている人形がかなり恐い。肝試しに行ってみるのもいいかもしれないが・・・。(^_^;;
ちなみに写真の像は桃から生まれたばかりの桃太郎だが、なぜかかなり老けている。(^_^;;

訪問時のツーレポ
 ● 2001年09月 まったり〜な トーマス快気祝い?
足助城(あすけじょう)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★☆☆

足助城全景
本丸付近
標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城である。真弓山は足助の町並みを眼下に 見下ろす要衝の地。足助城は、「真弓山城」とも呼ばれるが、「松山城」、「足助松山の城」とも呼ばれたようである。
現在の建物は、町制施行100周年の記念事業として平成2年から3年の月日をかけて発掘、調査、復元された山城である。復元には当時の材料を利用して行われ、木には栗の木、壁にはわらを練り込んだ土塀、縄や竹の釘を利用して作られている。ただし当時の文献などがないため、発掘調査で見つかった柱跡や時代考証から想像して作られている。
鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七屋敷(足助七城)」の一つとも伝えられますが、今回の発掘調査では、この時代の遺物は発見されず、現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられます。
足助城の歴史は古く、その沿革は源平時代までさかのぼる。平安時代末期に、尾張源氏の血をひく山田重直の子重長が足助の地に住んで足助氏を名乗りあたり一帯を支配して南北朝のころまで続いた。七代重範の時に、後醍醐天皇の挙兵に応じて笠置山に立てこもった。重範のあと、子の重政も南朝についたが、興国年間宗良親王と共に東国に去って城は取り払われた。
戦国時代には西三河山間部に勢力をもっていた鈴木氏の根城となる。足助の鈴木氏は、忠親→重政→重直→信重→康重と5代続き、初代・忠親は、15世紀後半の人といわれている。松平清康(徳川家康の祖父)に攻められ服属したが、清康の死とともに離反する。その後岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返すが、永禄7年(1564年)以降、松平元康(後の徳川家康)の家臣となる。その後は松平氏のもとで高天神城の戦いなどに武勲をあげ、天正18年(1590)康重のとき、徳川家康の関東入国に従って、足助城を去るが、間もなく家康から離れ、浪人したと伝えられている。
城内は案内板で順番に紹介されている。
足助の町から国道420号線に入って山を登っていったところにあるが、途中の道はかなり狭いので注意が必要。入場料300円で公開時間9:00〜16:30となっている。

天守閣がないので華麗さはないが、いかにも戦時中に作られたと言った感じのところでなかなかいい雰囲気で、眼下に足助の町を見下ろす事ができる。公園内はきれいに整備されており、山城とはいえそんなに苦になる事はない。建物は鉄筋ではなく、当時の材料で作られているのもなかなか良い感じである。
公園内に係の人がいていろいろと教えてくれるので、時間があるようであれば話しかけてみよう。周りには紅葉が植わっているので紅葉の季節にはかなりきれいだと思われる。人が少ないときに行った方が雰囲気を味わえていいだろう。

訪問時のツーレポ
 ● 2003年03月 まったり〜な お花見会 2003
長篠城(ながしのじょう)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★☆☆

長篠城公園入口
鳥居強右衛門磔の地
長篠城は永正5年(1508年)、今川氏親に属する菅沼元成によって築づかれた。長篠菅沼氏は荒尾菅沼氏・田峯菅沼氏とともに設楽地方の山家三方衆のひとつである。桶狭間の合戦後、松平氏(徳川氏)に従うが、武田信玄により攻められ武田郡に従属。信玄の死後、再び徳川氏に従属する。
武田信玄の跡を継いだ勝頼は、天正3年(1575年)5月、1万5千の軍を率いて長篠城を囲んだ。このときの城主・奥平貞昌(信昌)はこのとき21歳で500の城兵と共にこれを防いだ。奥平は岡崎の徳川家康に援軍を求めようとしたが、使者が城から抜け出ることもできない。鳥居強右衛門は自ら志願して使者となり、武田軍の厳重な包囲網を突破して、岡崎に向かった。岡崎で徳川家康と織田信長から援軍の約束を受けて長篠に戻ったが、城中に入ることができず、武田軍に捕らえられてしまった。武田軍は「援軍は来ないと大声で伝えたら命は助けてやる」と強右衛門を城門前に連れて行ったが、強右衛門は大声をあげて「すぐに援軍が助けにやってくる」と叫んだ。これを聞いて城内は大喜びし、武田軍ではすぐに強右衛門を殺してしまった。
その後、織田・徳川の援軍3万8千は設楽原に進撃し、連吾川にそって陣地を築き、武田軍の進撃を待った。日本最強を誇る武田軍の騎馬隊の壮絶な突入も、連合軍の放つ3千廷の鉄砲の前に破れさった。信長は奥平貞昌の功績をたたえ、貞昌に自分の「信」の一字を与え信昌と名乗らせ、家康の長女亀姫を信昌の妻とさせた。

現在長篠城跡は公園となっており、当時の土塁が一部残っている。公園の横には長篠城趾史跡保存館(210円)があり、鳥居強右衛門を中心に長篠合戦が紹介されている。
城跡にはあまり見る物もなく、あまり見応えはない。近くに長篠の合戦古戦場跡が多くあるが、ただの陣跡となっているため歴史に興味がある人以外はあまりおもしろくないだろう。ここの資料館は鳥居強右衛門を中心に長篠合戦が紹介されており、なかなかおもしろい。

訪問時のツーレポ
 ● 2003年03月 まったり〜な お花見会 2003
犬山城(いぬやまじょう)
内容=★★★★☆ お得度=★★★★★

天守閣
現存する日本最古の天守閣といわれ、姫路城、彦根城、松本城とともに国宝に指定されている。また、日本で唯一の個人所有の城としても有名。小高い丘の上に建つ姿から、江戸時代の儒者である荻生徂徠が中国の唐代の詩人李白の詩からとって「白帝城」とも呼ばれている。
犬山城は天文6年(1537年)に織田信康により現在の位置に本丸が造営された。その後、織田信清、池田信輝、野田信房、織田信雄と城主を代え、文禄4年(1595年)に城主となった石川光吉が城を改修し、現在のような天守閣を造った。関ヶ原の合戦後、東軍についた石川は西軍に攻略され、小笠原吉次が城代として入城。慶長12年(1607年)に平岩親吉が犬山城に入り、元和3年(1617年)に尾張徳川藩の家老格であった成瀬正成が城主となってからは代々成瀬氏が継いで明治に至った。
明治5年に廃藩置県で廃城となり、天守を除くほとんどの建物が取り壊された。明治24年の濃尾震災で天守の一部が壊れ、明治28年に旧犬山藩主正肥に城を修理するという条件で城を譲られ、現在に至っている。
開城時間=9:00〜17:00、入場料=400円

天守閣は属城だったと言うこともあり、姫路城などのようにそれほど大きなものではないが、本物の城であると言うだけでも十分に見る価値はある。これが個人所有というのがなかなかすごいことである。最上階からは眼下に木曽川や町並みを一望でき、眺めはとても良い。
昔テレビでこの犬山城のことが紹介されていたが、この城に関して県との間に確執があるようだ。城の修理には確かに成瀬氏がお金を出したんだが、その多くは市民の寄付により行われたらしい。また入場料のうち半分が成瀬氏の収入となり、半分が城の補修に使われるようだが、実際はその分では足りず、税金から管理費が補充されている。このため、その割合を変更できないかとのやりとりがあっていたらしい。(これは10年くらい前に見たテレビからの情報なので正確さを欠いているかもしれない)