石 川 県

史跡・建築物

福浦灯台 総持寺 時国家
上時国家 須曽蝦夷穴古墳 懐古館飯田家
七尾城 - -

福浦灯台(ふくうらとうだい)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

木造の灯台
福浦港を見下ろす日和山の高台に立つ木造の灯台で、現存する日本最古の木造灯台と言われている。
灯台の歴史は古く、慶長年間(1596〜1615年)に地元の住人・日野長兵衛がかがり火をたいて暗夜の海を航行する船を守ったのが始まりとされている。元禄時代(1688〜1704年)にはこの地に灯明堂が建てられ、日野家が代々灯明役として守ってきた。現存する灯台は明治9年(1876年)に日野吉三郎が建設したもので、木造四角、桟瓦葺き、高さ5mの建物で内部は3層になっている。明治末期に日野家から地元の村に灯台管理が引き継がれたが、昭和27年(1952年)に新灯台ができたことにより灯台としての役目は終わった。

岬の先端の駐車場から遊歩道を少し歩いたところに建っていて、雰囲気はなかなかいい。一定期間で外壁の修理・改修が行われているようなのであまり古さは感じない。建物は灯台という感じではなく、見張り台のような感じに見える。中の見学はできるのかどうか不明。
ここから見下ろす福浦港は北前船が全盛の頃はその基地としてかなりにぎわったらしいが、いまはその面影はなくひっそりとしている。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
総持寺(そうじじ)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★☆☆

お寺の山門
正式には諸嶽山總持寺祖院と言い、曹洞宗4世・瑩山禅師により開創された座禅修行の道場で、永平寺とともに末寺15,000寺を有する日本曹洞宗の大本山だったが、明治時代の火災により、その地位を横浜鶴見の総持寺に譲ることとなった。
道元禅師により始められた曹洞宗であるが、4世の瑩山禅師により全国に広められ、曹洞宗の礎を築いた。このため、曹洞宗では道元禅師を「高祖」とあがめ、瑩山禅師を「太祖」と仰ぎ、このお二人の祖師を「両祖」と崇め、「道元禅師は宗門の父であり、瑩山禅師は宗門の母である」とも表現され、二つの総本山を持つこととなった。
瑩山禅師は、文永5年(1268年)に生まれ、8歳の時に永平寺へ入門した。その後各地で道元禅師の教えを広め、54歳の時、元亨元年(1321年)に総持寺を開いた。翌年、後醍醐天皇により「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められ、総本山として隆盛を極めた。しかし明治31年(1898年)に火災より七堂伽藍の大部分を焼失し、明治44年(1911年)、石川素童禅師によりは横浜鶴見の総持寺に本山が移転された。現在は焼失をまぬがれた伝燈院、慈雲閣、経蔵などの他に七堂伽藍も再建されている。
拝観時間=8:00〜17:00、拝観料=400円。

曹洞宗の昔の総本山ということで、宗教的、歴史的には意味のある場所であるが、建物などはほとんどが再建となっている。再建と言っても鉄筋での再建ではないので見応えはある。ただ総本山の地位を横浜鶴見の総持寺に移してしまったため、やはり訪れる人は少なくなっているような感じがする。ただここまでやってきたのなら永平寺と合わせてやってくるにはいい感じかもしれない。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
時国家(ときくにけ)
内容=★★★☆☆ お得度=★★☆☆☆

建物全景
茅葺き屋根の裏側
源平合戦に敗れて能登に流罪となった平時忠の子孫の家で、重要文化財にも指定されている。本家の上時国家に対して下時国家と呼ばれる。
平大納言時忠は平清盛の義弟で、平家の一門として栄華を誇ったが、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡。ほぼすべての関係者が死罪となったが、時忠は三種の神器の奪還の功を認められ、文治元年(1185年)に隠岐へ流罪となった。5年後に時忠は亡くなり、その後を継いだ時国は源氏の追討を恐れ、名字を名前の「時国」に改めた。その後周辺の開墾に励み、時国村を成までになる。江戸時代に入り、時国村は加賀前田領、越中土方領から支配を受けることになり、嘉永11年(1634年)、13代当主・藤左衛門時保は時国家を2家に分立し、当人は加賀藩領に居を構えた。これが現在の下時国家である。
現在の邸宅は嘉永11年の分岐の時に建てられたと言われるが、正確には分かっていない。邸宅は木造平屋建ての茅葺き入り母屋作りで、大戸口を入ると40坪の土間があり、太い梁組みが当時の豪農の勢いを物語っている。また屋根裏に非常時に備えた食料を隠したと言われる「かくし倉」がある。庭園は2000坪の回遊式庭園で、名勝に指定されている。
開館時間=8:30〜17:00、開館期間=4月1日〜12月31日、入館料=600円。

民家として使用していたと考えるとかなり大きな建物で、かやぶき屋根の構造などを裏から見ることが出来る。居住空間は建物の中にさらに建物を造られたような感じになっていてちょっとおもしろい。かくし倉というものが見えないのはちょっと残念。
タクシーやツアーでやってきたり、人数がある程度多いと係の人が案内してくれるようだが、普通にやってくると既設の案内ボタンからの説明を聞くことになるようだ。なんかちょっと寂しい感じもするが、その分自由に回れるのでいいかもしれない。なかなか見応えはあるんだが、ちょっと値段が高すぎる。上時国家、下時国家のどちらかを訪問すればいい感じかもしれない。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
上時国家(かみときくにけ)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★☆☆

建物全景
庭園の様子
源平合戦に敗れて能登に流罪となった平時忠の子孫の家で、1808年から28年の歳月を建てられた邸宅で重要文化財にも指定されている。
平大納言時忠は平清盛の義弟で、平家の一門として栄華を誇ったが、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡。ほぼすべての関係者が死罪となったが、時忠は三種の神器の奪還の功を認められ、文治元年(1185年)に隠岐へ流罪となった。5年後に時忠は亡くなり、その後を継いだ時国は源氏の追討を恐れ、名字を名前の「時国」に改めた。その後周辺の開墾に励み、時国村を成までになる。江戸時代に入り、時国村は加賀前田領、越中土方領から支配を受けることになり、嘉永11年(1634年)、13代当主・藤左衛門時保は時国家を2家に分立し、このとき加賀藩領に居を構えたのが下時国家であり、本家は上時国家となった。
邸宅は21代当主・左門時輝が文化5年(1808年)から28年もの歳月をかけて造らせたもので、建坪は189坪、茅葺き屋根の高さは18m(4〜5階建てビルに匹敵)と当時のものとしては日本最大級の建物である。金の格天井や大納言の間など、当時の格式を随所に感じることができる。庭園は江戸時代に造られたという鎌倉様式のもの。
開館時間=8:30〜18:00(夏期)、8:30〜1700(冬季)、年中無休、入館料=420円。

民家として使用していたと考えるとかなり大きな建物で、かやぶき屋根の構造などを裏から見ることが出来る。位の高い人を迎えるための部屋などはかなり豪華に作られているが、絵画などは複製品みたいだ。タクシーやツアーでやってきたり、人数がある程度多いと係の人が案内してくれるようだが、普通にやってくると案内放送を聞くことになる。上時国家、下時国家のどちらかを訪問すればいい感じかもしれない。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
須曽蝦夷穴古墳(すぞえぞあなこふん)
内容=★☆☆☆☆ お得度=★★★★★

古墳の全景
石室の内部の様子
古墳時代の終わり頃に地元の有力者により築かれたと言われる墳墓で、全国的にも珍しい特徴を有していることから国の指定史跡に登録されている。
墳丘は東西約18.7m、南北約17.1mの方墳で、正面の墳裾に低い石積みを巡らした典型的な終末期古墳の様式。しかし墳丘内部には付近の海岸から運んだ安山岩板石で一対の墓室(横穴式石室)が造られ、横幅の広い奥室(玄室)やドーム形に持ち送る天井(隅三角持送技法)など朝鮮半島の墳墓に通じる特色を備えている。向かって右の雄穴石室は古墳の主を葬ったと言われる石室で、平面T字型に設計されている。向かって左の雌穴石室は規模が一回り小さく、平面逆L字型の石室となっている。
平成元年(1989年)から平成8年(1996年)まで調査、修復工事が行われ、7世紀中頃の当時の姿に復元された。現在は史跡公園として整備されている。
見学自由。

日本ではかなり珍しい墳墓だが、よっぽどこういうのに詳しくない限りはよく分からないことだと思う。現在はきちんと整備されていて石室の中にも入ることが出来るが、中は真っ暗。ただの石室なので中に何があるわけではない。ちゃんと整備されているので大丈夫とは思うんだが、崩れてこないか心配になってしまう。

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 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
懐古館飯田家(かいこかんいいだけ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★☆☆

建物内部
江戸時代後期に建てられた茅葺きの建物で、加賀藩の肝煎(庄屋)もつとめた家。
戸障子を取り払うと大きな広間になる能登民家の典型的な建物で、太い松の梁や欅の柱は、深い雪を支えるだけではなくその威勢も示している。広い庭園の石はすべて七尾城武家屋敷の基礎石であり、当時の井戸も残されている。庭の苔は種類が豊富で、40種類以上の苔が庭園を覆っている。
開館時間=9:00〜17:00、休館日=月曜日、祝日の翌日、拝観料=400円(資料館と共通)

昔ながらの茅葺きの建物で、中には当時の資料などが展示されている。係の人が細かく説明してくれるのでとてもわかりやすいが、ちょっと時間に余裕がなかったのであまりのんびり出来なかった。さすがに古いためあちこちがきしんでいたりするがこれはしょうがないだろう。

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 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
七尾城(ななおじょう)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★★★

城の石垣
本丸後の記念碑
守護大名として170年間能登を統治した畠山氏の居城で、上杉氏の越後春日山城、浅井氏の近江小谷城、六角氏の近江観音寺城、尼子氏の出雲月山冨田城とともに日本5大山城と言われている。
室町時代三管領の一つ畠山氏から分かれた能登国の守護であった能登畠山氏の居城で、初代畠山満慶の頃に砦として築かれたのが始まりと言われる。その後の戦乱により次第に拡張、増強され、山城の様相を呈していった。永正・天文時代(1500年代前半)にはもっとも文化が栄え、城山山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なったと記録が残っている。
天正5年(1577年)に上杉謙信により七尾城は落城し、ここに能登畠山氏は滅ぶ。上杉謙信の詠んだ有名な九月十三夜の詩「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁(かかん)月三更 越山併せ得たり能州の景 遮莫家郷(さもあらばあれ)の遠征を憶ふ」はこの城で詠まれたと言われる。天正9年(1581年)に織田信長の配下の前田利家が入るが、既に山城の時代ではないと考え、居城を小丸山城に移したため、天正17年(1589年)に廃城となった。
標高約300mの尾根に長屋敷・本丸・西の丸・二の丸・三の丸などの曲輪を配置し、尾根に沿って大小無数の砦を配置していた各曲輪の石垣のほとんどが現存しており、当時の様子が忍ばれる。保存状態が良く、歴史的資料としての価値が高いことから国の指定史跡に登録されている。

典型的な山城で、山頂から尾根に沿って多くの石垣が残っている。残っている石垣からもかなり大きな山城だったことが忍ばれる。遊歩道が整備されており、時間があればゆっくりと回ってみるのもいいだろうが、いかんせん敷地が広すぎる。山頂付近の駐車場からだと10分くらいで本丸跡に出ることが出来るのでこのくらいがお手軽かもしれない。山頂からの展望もなかなかいい。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング