島根県 隠岐

史跡・建築物

玉若酢命神社 隠岐国分寺 水若酢神社
黒木御所 焼火神社 由良比女神社
船引運河 隠岐神社 三穂神社

玉若酢命神社(たまわかすのみことじんじゃ)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★★★

随神門と本殿
玉若酢命(たまわかすみこと)を奉る隠岐にある最古の神社で、隠岐の総本社となっている。境内には樹齢1000年、2000年と言われる八百杉(やおすぎ)がある。
本殿は寛永5年(1793年)に建てられたもので、横に長い平面形を持つが、切妻屋根で妻入り、正面に向拝と呼ばれるひさしを付ける隠岐造とよばれる独特の様式となっている。本殿の手前にある随神門(ずいしんもん)は嘉永5年(1852年)に建てられ、これらの建物と社家隠岐家住宅が重要文化財に指定されている。
毎年6月5日の隠岐の三大祭りのひとつ・玉若酢神社例祭が御霊会風流(他、西郷町の武良祭風流、水若酢神祉の祭礼風流)で、8頭の神馬が馬付きと共に本殿に向かって駆け上がる「馬入れ神事」が行われる。
天然記念物に指定されている八百杉は、根元の周囲20m、高さ30mの杉で、樹齢は1000年とも2000年とも言われる。数百年生きながらえたと言われる八百比丘尼が若狭より隠岐に渡り、この神社に参拝したおりに植えた杉ということからこの名が付いた。この杉の根元には大蛇が生息していたが、この蛇が寝付いたまま値に包まれてしまったため、いまでも周囲が静かなときには大蛇のいびきの音が聞こえると言われる。
拝観自由。

地元の神社といった感じのところで、建物は200年くらいの歴史があり、隠岐独自の建築様式となっているんだが、一般的にはあまり見応えがあるような感じではない。境内は自由に散策できるようになっているので、子供の遊び場になっているみたいだ。境内にある杉はかなり大きいのでこっちの方が見応えあるという感じがする。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
隠岐国分寺(おきこくぶんじ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★☆☆

後醍醐天皇の行在地の碑
境内のツツジ
聖武天皇の勅願で天平年間(729〜749年)に建てられた国分寺のひとつだが、現在は昭和時代に再建された本堂が残るのみ。
聖武天皇の時代に建てられた全国六十八ヶ寺の国分寺、国分尼寺のひとつで、本堂、庫裡、鐘楼、三重塔、大門、中門、山門などの七堂伽藍が建てられ隆盛を誇った。しかし明治2年(1869年)から起こった廃仏毀釈により建物すべてが消失し、昭和25年(1950年)になって本堂だけが再建された。この時にうち捨てられたと思われる仁王像(裏山に放棄されていた)や吉祥天像(田の中に放棄されていた)が奉られている。現在本堂の奥に当時の礎石が残っている。
毎年4月21日に、奈良時代に伝えられたと言われる蓮華会舞(れんげえまい)が奉納され、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。
隠岐に流罪となった後醍醐天皇の行在地だったという説もあるが、正確なところはわかっていない。この国分寺が行在地だったというのは明治時代の学者の研究により唱えられた説であるが、資料に基づいた研究結果から国の指定を受けた。他には西の島別府の黒木御所がある。
拝観時間=8:00〜18:00(夏期)、8:00〜17:30(冬期)、拝観料=300円、休館日=11月末〜3月中旬。

建設当時は七堂伽藍を配したと言われる当時の様子は今は昔という感じで、そんなに広くない敷地にひっそりと建っている感じになっている。昔の史跡も一部が残っているだけで、あまりイメージをふくらませることが難しい。歴史の流れを確かめに来るようなところ。本堂の中には小さな宝物館があるが、そんなに見るものがあるわけではない。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
水若酢神社(みずわかすじんじゃ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

本殿
隠岐国の国土開発と日本海鎮護の任務に当たったと言われる水若酢命(みずわかすみこと)を奉る神社で、島前の由良比女神社とともに隠岐国の一の宮とされている。(神社名には命が付いていない)
鋼鉄の鳥居の奥にクロマツに囲まれた参道が続き、その奥に本殿が建っている。本殿は寛永7年(1795年)に建てられたもので、横に長い平面形を持つが、切妻屋根で妻入り、正面に向拝と呼ばれるひさしを付ける隠岐造とよばれる独特の様式となっている。現在、重要文化財に指定されている。
隔年5月3日の隠岐の三大祭りのひとつ・水若酢神社大祭が祭礼風流(他、西郷町の武良祭風流、玉若酢神社の御霊会風流)で、7歳くらいまでの男の子が引く山曳神事や獅子舞、流鏑馬が行われる。
拝観自由。

建物は200年くらいの歴史があり、隠岐独自の建築様式となっているんだが、一般的にはあまり見応えがあるような感じではない。境内は自由に散策できるようになっていて落ち着いた雰囲気になっている。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
黒木御所(くろきごしょ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

ぽつんと立っている碑
黒木神社
元弘の変に敗れた後醍醐天皇が隠岐に流刑になったときに約一年間行在所として過ごしたといわれる場所。
元弘元年(1331年)に始まった鎌倉幕府との戦(元弘の変)に敗れた後醍醐天皇は皇位を光厳天皇に譲ることとなり、翌年隠岐へ流刑となった。さらに翌年に隠岐を脱出するまでの1年間、行在所として滞在したのがこの黒木御所と言われている。現在は山頂に天皇を祀る黒木神社と行在所跡の碑が建っている。
明治時代の学者の研究により、後醍醐天皇の行在所は島後の国分寺であったと発表され、現在は国分寺が行在所として国の指定を受けている。ただし後醍醐天皇にまつわる島の記録は島後には残っておらず、すべてこの島前の別府を中心に残っており、国分寺を行在所とする説には疑問点が残っている。

行在所と言っても今は碑が残っているだけで特に目をひくものではない。後醍醐天皇が幕府と戦って隠岐に流され、、その後脱出して再び幕府と戦って今度は勝利するが、そのあとはまた流刑のようなことになってしまうと言う歴史的にはなかなかおもしろい人物のいたところなので興味がある人にはいいかもしれない。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
焼火神社(やきびじんじゃ)
内容=★★★☆☆ お得度=★★★★★

岩にめり込むように建てられた本殿
焼火山の中腹にある平安中期の創建といわれる神社で、海上安全の神として崇められている。社殿は岩窟からせり出すように建てられた特異な建物で、隠岐で現存する最古の建物である。
平安時代中期に海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在社殿のある巌に入ったのが焼火権現の縁起とされる。隠岐に流罪となった後鳥羽上皇が海で遭難しかけた時、神火を放って船を導いたということから海上安全の神として崇められている。
社殿(本殿・通殿・拝殿)は享保17年(1732年)に建てられたもので、岩窟の中に半分隠れるように建っている。安藤広重や葛飾北斎等の版画「諸国百景」では隠岐国の名所として焼火権現が描かれている。現在社殿は国の重要文化財に指定されている。
焼火山の中腹にある駐車場から社殿までは400mの山道となっており、徒歩で10〜15分の行程。
拝観自由。

社殿は岩窟に半分埋もれるように建っていてなかなかおもしろい。よくこんな所にこれだけの建物を建てたものだと感心してしまう。ただ社殿以外はかなりぼろぼろになっていて、普段はあまり手入れされていないようだ。お手水の櫓は完全に倒壊していたし・・・。社殿付近からは視界が悪くて展望は良くないが、遊歩道の途中からの展望はよい。
案内板があまりきちんと出ていないので駐車場に上がる道がわかりにくい。駐車場からの遊歩道は整備されているんだが、そんなに人が通らないのか、結構荒れてきている。やはり参拝者が少ないのが要因なのかもしれない。間違ってもハイヒールなどでは行かない方がいいだろう。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

イカの人形
境内の様子
由良比女(ゆらひめ)を奉る神社で、島後の水若酢神社とともに隠岐国の一の宮とされ、海上安全の守護神として信仰を集めている。神社の前の由良の浜にはイカの大群が押し寄せることでも知られる。
承和9年(842年)に創建され、延喜式神明帳には「明神大」として、神中抄には「わたす宮」、土佐日記には「ちぶりの神」として書かれ、海上安全の守護神として信仰を集めている。本殿は春日造り変態といわれる春日造りに近い建築様式で、明治22年(1889年)に建設された比較的新しい建物。
神社の前の由良の浜には毎年10月から2月にかけてイカの大群(数百〜数千)が押し寄せていた。昭和40年頃からこの現象は途絶えていたが、平成4年11月に久しぶりにイカの大群が押し寄せた。
境内自由。

神社自体の歴史は古いようだが、建物とかは特に変わった感じはない。境内の森の中の10mはあろうかというイカの絵がいっぱい垂れ下がっていたり、神社の前の浜にはイカを捕まえる人の人形が設置されていたりとなかなか面白い。近年はイカが押し寄せることは稀みたいであるが、実際にやってきたときの写真を見るとほんとにすごい数だと言うことが判る。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
船引運河(ふなひきうんが)
内容=★☆☆☆☆ お得度=★★★★★

橋の上から見る運河
西ノ島の中央部の細くくびれた部分を採掘して造られた延長340m、幅12mの運河で、現在でも漁業や観光に利用されている。
運河は大正3年(1914年)から翌年にかけて約9ヶ月の歳月で完成され、内海の美田湾と外海を直線で結んだ。当時の金額で17,000円と村の予算に匹敵する費用が投じられ、ほぼ人力のみで完成したと言われる。完成当時の運河は延長340m、幅3.3mで、昭和39年(1964年)の改修で12mの幅に拡張された。運河が出来る前は船を陸上に引き上げ、外海に船を出したので「船引」という地名が着いたと言われる。

島の住民にとっては無くてはならない運河で、歴史的な意義は大きいと思われるが、観光としてみた場合はたいしたものではない。国道が橋とトンネルで結ばれる前はルートの途中にあったので寄っていくのも良かったかもしれないが、わざわざ回り道をしてまで行かなくてもいい感じ。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
隠岐神社(おきじんじゃ)
内容=★★☆☆☆ お得度=★★★★★

本殿
葉桜になった桜の参道
隠岐に流罪となった後鳥羽上皇没後700年祭を記念して建てられた神社で、参道が桜の名所になっている。
承久3年(1221年)に起こった朝廷と鎌倉幕府の戦い(承久の乱)で破れた後鳥羽上皇は隠岐に流罪となった。その後隠岐から戻ることもなく、延応元年(1239年)に死亡。そして昭和14年4月(1939年)に後鳥羽天皇没後700年祭を記念して後鳥羽上皇の火葬塚の隣接地に後鳥羽上皇を祭神とする隠岐神社が造営された。
参道の両側には桜並木が続いており、4月14日に毎年春の例大祭が行われる。
境内自由。

天皇を奉った新しい神社なのでそれほど見所があるわけではない。戦前の天皇崇拝の一環として造られたような印象があり、そうでなかればわざわざ造営はされなかったと思われる。桜の時期に来れば参道の桜並木が見事らしい。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング
三穂神社(みほじんじゃ)
内容=★☆☆☆☆ お得度=★★★★★

境内の様子
隠岐に初めて上陸した後鳥羽上皇が第一夜を過ごしたと言われる神社で、境内にとの時に詠んだ歌の碑が建てられている。
承久3年(1221年)に起こった朝廷と鎌倉幕府の戦い(承久の乱)で破れた後鳥羽上皇は隠岐に流罪となった。承久3年(1221年)8月5日、隠岐に上陸したときに最初に宿泊したのがこの神社だったと言われている。そのときに詠んだのが「命あれば かやがのきばの 月もみつ 知らぬは人の 行くすえの空」「おなじ世に またすみのえの 月や見む 今日こそよそに 隠岐の島守」という歌である。
境内自由。

かなり小さな神社で境内に上の歌の碑がたっているくらいで特に見るところはない。

訪問時のツーレポ
 ● 2006年05月 隠岐・能登半島ツーリング