阪神大震災について!

機関誌 Vol.11 80〜82ページ

<王将男>


ツーリングクラブ”らいらっく”対策本部 特攻調査部
オフロードチーム”笹田牛乳店”都島本部  城東支部
大阪市在住   王将男
 平成7年1月17日(火)午前5時46分に兵庫県南部地震は起きてしまいました。
 これから、私が兵庫県南部地震(この後、阪神・淡路大震災という)で実際に見て感じた事を記録に残します。

 平成7年1月14日(土)〜16日(月)の3日間は、北志賀の方へスキーに行っていた。始めの予定では、17日(火)の午前5時〜7時の間に京阪電鉄の古川橋駅に着くはずだったが、連休明けと仕事と言う事もあり、17日(火)の午前12時には古川橋駅に着いていた。友人の車で午前1時30分前に自宅に戻って、スキー板や洗濯物などを出したりしていた。そして、お風呂に入ってから布団に入った時には午前3時前でした。
 帰りのバスで日本酒を呑んでいたので熟睡していた事もあって中々寝付けずにいたが、知らない内に眠っていた。その後で、あんな事になるとは思ってもいずに。
 眠っている私の体が揺れるのを感じて起きたが、しばらくはそのまま体を横にしていたが、烈しい揺れになったので起き上がり、たんすの上に置いてある物を押さえていたが、かなりの揺れが続いていたので、ズボンも履かずに表に飛び出していました。今までに体験した事のない地震だった為に、自分でも何をして良いか考えずに行動していた。
 地震もおさまったので、家族3人で家に入り、大切なものだけをひとまとめにした。それから、私は車が気になり駐車場の方へ行った。その途中でも、マンションの非常ベルが鳴り続けていて、住人が近所の戸を叩いて呼び出したりしていた。
 車の無事を確認して、家に帰ってからテレビを付けると、NHKで地震速報が始まっていた。大阪震度4、京都・奈良震度5というのを見て、私は京都か奈良が震源地だと思っていた。しかし、神戸震度6という表示が出た時には自分の目を疑るほどの衝撃があり、信じられない気分でした。
 会社から、自宅待機の指示が午前6時30分に電話での連絡が有り、父親が午前7時過ぎに、母親が8時30分にそれぞれ働きに行ったが、自分だけは家でテレビにかじり付いていた。そこには、自分の知っている神戸の街が無惨にも破壊されている映像が流れていて、何とも言えない気持ちで一杯であった。
 家に居ても仕方がなかったので、とりあえず自分たちのたまり場でもあるめがね屋に向かった。そこには、昨日まで一緒にスキーに行っていためがね屋の主人と友人がいた。そこで少しの間いたが、会社の状態も気になっていたので、DTで会社へと向かった。会社には10人ほど出勤していたが、神戸方面の2人はまだ出社していなかった。
 会社の人に電話しながら、神戸の友人に電話をした。しかし、何度かけてもつながらなかった電話だったが、唯一そうじの家にだけつながり、そうじの元気な声を聞く事ができて一安心したが、他の人には連絡が取れなかった。
 会社も午後3時に退社する事になり、DTで帰ろうとしたが、後輩の男が俺の所まで来て、彼女の所まで送って欲しいと頼んできた。その彼女は、同じ会社で、武庫川沿いの岡崎のマンションに住んでいた。しかし、ヘルメットがなかったが、後ろにノーヘルで乗せてから、2号線へ向かっていった。2号線は地震の影響で大渋滞になり、歩道を走行したりして、なんとか兵庫に入ることが出来た。
 大阪では、それほど被害はなかったが、西に行くにつれて地震の大きさがわかる。そして、1時間半ほどでマンションに到着したが、玄関に宝塚に行くという張り紙だけがあり、ここまで来たのだから、宝塚まで行くことにした。しかし、尼宝線沿いの団地だけを頼りに、無謀にも捜査を開始した。始めは、宝塚と伊丹を間違えていて、1時間ほど伊丹市にいたが、回りにはガスの臭いが充満していた。そこで、後輩は自分を落ち着かせようと、タバコに火を付けていた。ガスの臭いが強くしている所だったが、後輩も動揺していて、とんでもない行動をしてしまったようだ。
 間違いに気がついた私達は、尼宝線沿いの団地と避難場所を捜索しながら移動し、その甲斐もあって、午前8時過ぎに捜し出した。そこは、障害者センターが避難場所になっていて、数百人が避難していた。彼女は、俺達の顔を見て、安心して泣き崩れてた。
 後になって判ったことだが、ここからたけちゃんの家までは、30分くらいで行ける距離だったので、行けなかったことに後悔した。
 1時間ほど話した後に帰ると、午後11時前であった。それからやっぴーに電話すると、らいらっく関係では、たけちゃん以外は連絡が取れていたが、たけちゃんには、誰も連絡がとれていなかった。
 次の日は、普段通り出社したが、たけちゃんの事が気になったので、次の日に休みをもらって、捜索しに行くことにした。この日の夕方に友人から、生瀬の方は大丈夫という事を聞いたので、少し安心した。
 地震発生から2日が経った1月19日(木)に、私は、たけちゃんの捜索に出かけようとしたが、起きたのが午前10時を過ぎていた。それから、新御堂を通るのが怖かったので、十三大橋から176号線に入り宝塚を目指したが、途中、橋脚の破損のため、迂回しながら宝塚市に入った。宝塚ICを越えた所でも橋脚の破損のために、通行が出来ない道路があちこちにあった。宝塚に入るまでの176号線は大渋滞で、DTですら動かない場合が多々あり、176号線の走行を諦めた私は、温泉街の裏道を通るため、そこへ向かったが、山沿いの狭い道で崖崩れがあり、バイク1台が通るのがやっとの所を越えて、なんとか生瀬の駅前に着いた。
 たけちゃんの家の場所を知らない私は、辺りを見渡していたとき、近くにポットを持った女の子がこちらを見ていた。その女の子は坂を上がろうとしていたので、私はその女の子に、たけちゃんの家を聞こうとDTを走らした。「すいません、このへんに生瀬高台ってありませんか?」と聞いたとき、私は自分の目を疑った。その女の子こそたけちゃん本人だったからだ。私は、バイクを降り、腰に力が入らなくなり、DTを支えながらしゃがみこんでしまった。偶然にも、仕事場から帰る途中のたけちゃんと出会えた私は、家におじゃまさしてもらった。給水車が来たので、手伝いをしたりしていたが、たけちゃんが友人の安否を気づかっていたので、その場所まで様子を見に行くことにした。
 その友人の家は、門戸厄神の近くであった。私は、初詣に来たことがあったので、171号線に向けて走ったが、その途中で、新幹線の高架が無惨にも倒壊しているのを見て、鉄道おたくの私は、取り合えずカメラにその状況を収めていた。それから、いま来た道を戻って、遠回りをしながら、門戸厄神近くまで来たのだが、ここでも、マンションのらせん階段が横倒しになっていたり、家のブロック塀が倒れて、歩道に見えたりしていた。狭い道を通りながら、たけちゃんの友人の家近くまで行き、そこで、近くの住人に様子を聞いてから、また来た道を戻り、たけちゃんの家に行き、そのことを報告した。
 その晩にそうじに電話をして、土曜日にそうじのマンションから、貴重品を引き上げるための打ち合わせを兼ねて、次の日の夕食を共にすることにした。金曜日の夕方に、仕事を定時で切り上げた私は、そうじの避難している、妹のマンションへ向かった。そして、近くの焼き肉屋で、次の日の打ち合わせをしながら、そうじの話を聞いていた。普段余り話をしないそうじだが、このときは私が聞いているだけであった。
 そうじのマンションに行く、土曜日の朝が来た。私は、ある程度の覚悟をして、そうじの妹のマンションまで行った。午前7時に塚本を出発した私たちは、大渋滞の2号線を西へ向けて走っていった。淀川を渡り、兵庫県に入ったときの尼崎までは、それほど地震の影響は無かったが、武庫川を越え、西宮に入ってからが悲惨な光景が広がった。それは、神戸に遊びに行くときに走る、2号線の光景はなく、まるで別の場所に来たような気持ちになり、神戸の思い出が一つ一つ、私の脳裏によみがえる中で、DTを走らせていた。悲惨な光景を横目にしながら、私とそうじは口数も少なくなっていた。
 それから、さらに西の神戸市内に入って、三宮に着いた私たちの横にはそごうがあり、テレビで見る光景が浮き彫りになっている。しかし、この先は通行止めになっていて、43号線に迂回することにした。43号線に入ってすぐに、阪神高速の高架橋が折れて、ずれ落ちる様になっていて、上の道路に段が出来ていた。少し走った所では、阪神電車が脱線しているのも確認できた。
 この後、2号線と交差しているところで、高架が完全に倒壊しているのを見て、そうじと二人でヘルメットの中で泣いていた。このとき私は、そうじに慰められていたが、お互いにやり切れない気持ちで一杯であった。
 そうこうしている内に、そうじのマンションに着いた私たちは、下で持って帰る物の確認をして、12階まで階段を昇って行った。12階では廊下に亀裂が有り、1階から13階まで、30センチ程の隙間が開いていたのを見て、この地震の凄さを感じていた。そして、12階から見た神戸の街は、今までの様子は勿論なく、1台の車も走っていない阪神高速や、焼け野原と化している長田区周辺が、私たちの目前に広がっている。
 無事、貴重品も取ることが出来た私たちは、クリーニング屋とレンタルビデオ屋に行ってから、そうじが言っていたトポスに行くことにした。それまでにニュースでよく流れていた、地下にある大開駅の倒壊により、道路が埋没している現場に行ったが、流石のDTでも通れる状態ではなく、迂回しながらトポスまで行った。そのトポスは、1階部分が完全に押しつぶされていた。
 それから、そうじがスクーターで塚本まで戻るために、もう一度、マンションに戻り、私の後ろからスクーターに乗り換えた。塚本に帰るまでに、たかちゃんの家を見ていこうとして、東にDTを走らせたんですが、なんと、そうじが43号線沿いのJR神戸駅で、検問をしている中を、作業用のトラックと一緒に通過してしまい、私も通ろうとしたが、婦警に止められて、そうじとはぐれてしまった。取り合えずは仕方がないので、たかちゃんの家に向かった。始めにJR六甲道駅に着いたが、そうじの姿はなく、少し待ってからたかちゃんの家を探しに行った。それからすぐに家は見つかり、周りの様子だけ見て、JR六甲道駅に戻ろうとした私の目の前にLILACのステッカーを貼っているスパーダがあり、無惨にもガードレールに寄り掛かって倒れていた。それを見た私は、そのままの状態で置いておくのが嫌だったので、フロントにU字ロックが掛かっていたので、リヤを持ち上げて起こすことが出来た。その状態を見た私は、この場から一刻も早く去りたかったので、そうじのことをすっかり忘れてしまい、2〜3時間の間、JR六甲道駅とたかちゃんの家の周辺で、待ちぼうけすることになり、本当に悪いことをしたと思っている。
 私の不手際で、そうじとの再会が午後5時前になり、それから私の提案で、二人でたけちゃんの家に行くことにして、DTに二人乗りで宝塚に向かった。日も完全に落ちている時間に宝塚に入ったが、176号線が相変わらず大渋滞のために、温泉街の裏道を通ることにしたが、そこには宝塚グランドホテルから見えるように、華やかなネオンが灯されていて、そうじと二人で悲しい気持ちになった。
 たけちゃんの家で、3人で今回の地震について語っていたが、なんとなく盛り上がりもせずにいたので、私は、3人でスキーに行く約束をした。それから、数時間が過ぎてから、そうじを塚本まで送ってから、家に帰った。
 この後に、らいらっく関係や地元の友人関係で、神戸に何度となく足を運んだが、まだまだ、本当の復興までは、時間がかかるであろう。

 しかし、私が神戸に行くことは、多々あるだろうが、今までと同じ様に、神戸の町並みを見ながら、バイクで走りたいと思う。これから、なにかの手伝いや、単なる神戸に遊びに行くだけや、一人でぶらっとバイクを走らせに行くこともあるが、今までの神戸以上に神戸を好きになった気がする。

 がらにもなくまじなネタで書いたが、今回だけは特別なんで許して下さい。また、次回からは、いつも通りの面白くもない、自己満足のネタでお送りしたいです。

 最後に、阪神大震災により、多くの人の犠牲や、住居の倒壊などで、被害に遭われた方に対して、心からお見舞い申し上げます。
 これからの神戸の復興を祈りつつ、これで、私の阪神大震災の記録を終わります。

                            王将男 1995.3.27